9代横綱

秀の山 雷五郎

(HIDENOYAMA RAIGORO)


-小柄故の挫折-
歴代横綱中、最も背が低いとされる。

仙台市で海上運輸を営む父の子として生まれる。名前は菊田辰五郎。次兄の影響を受けて力士を志願し、数え16歳の1823年、江戸の伊勢ノ海部屋に入門する。入門前は自宅屋敷裏にあった榎に体当たりを繰り返しついには枯らしたという伝説が残る。

ところが、小柄な故に仲間からも馬鹿にされ、部屋での扱いは弟子というよりは小僧、使い走りのような扱いだった。辰五郎は失意のうちに江戸を後にした。


-衰えぬ相撲への情熱-
その後はしばらく栃木県桐生市で力仕事に従事していた。相撲での情熱は衰えず仕事の合間を縫って稽古に励み力量を磨いていった。

秀の山に弟子入りをし、北山辰五郎の名で1828年10月序ノ口に出た。出世は順調で33年2月には幕下二段目まで番付を上げる。

当時、彼は出雲藩のお抱えであった。出雲藩お抱えの力士は質が高く、彼の発奮を促し、37年1月には入幕を果たす。


-角界最高峰へ-
1838年2月場所は初日から勝ちまくり、40年2月場所7日目に敗れるまで30勝3分け1預りと圧倒的な力を見せる。この時、既に関脇の地位を手にしていた。

立神と改名した辰五郎は41年1月場所でついに大関昇進。一度は関脇に降格するものの43年10月に大関復帰を果たす。この場所中に秀の山雷五郎を襲名した。

45年9月、横綱免許を授与された。

全盛期は最初の大関昇進の前後と言われている。体の小さいハンデを克服して角界の頂点まで上り詰めた姿からは負けん気がにじみ出ている。

49年の上覧相撲出場を花道に50年2月限りで引退。引退後は相撲会所(現:日本相撲協会)の要職に就任して、テキパキとした仕事ぶりの評判は高かった。

が、晩年に嘉永事件を引き起こす直接的原因となり晩節を汚してしまったのは悔やまれる。

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