8代横綱

不知火 諾右衛門
(SHIRANUI DAKUEMON)


-平凡な人生が一転-
本名は近久信二。故郷の熊本で郡役人の職につき、二児をもうけ幸せな生活を送っていた。極めて平凡な人生であった。

ところが、数え23歳の時に現在でいう傷害致死事件に巻き込まれて、故郷に別れを告げざるを得なくなる。

大坂に出て、体力を活かす仕事に従事した後に初嵐文五郎の門下生となる。


-最年長新横綱への道-
大坂本場所にデビューし、湊由良右衛門の弟子となり戸立野と名乗る。1830年に雲州藩お抱えとなり、黒雲に改名した。

1830年11月からは江戸相撲に参戦。江戸では浦風林右衛門の弟子として出場した。1837年1月に入幕して濃錦里と改名した。この時点で既に数え37歳。この力士はここから横綱の称号を得る。

38年3月、細川家のお抱えとなったことに加えて大関・稲妻が欠場した為に、小結と関脇を飛び越して大関に昇進。この場所は負け越しに終わった。

39年11月は稲妻が復帰した為に関脇に降格。しかし、すぐに40年の2月に大関に返り咲いた。この場所から肥後藩ゆかりの不知火諾右衛門と改名する。

そして、40年11月(諸説有り)に不知火は吉田司家より横綱免許が授与される。この免許授与は謎が多く、免許直前の場所から3場所連続で土俵に姿を見せなかった。横綱免許に細川家の力が働いたと公然と言われている。

何はともあれ実に40歳の新横綱が誕生した。

新横綱は42年2月にようやくお披露目。この時の番付は関脇。当時は横綱は地位ではなく称号であったためである。地位降格を経験した横綱は不知火のみである。

-上覧相撲で意地を見せる-
1844年9月、将軍・家慶の上覧相撲で横綱土俵入りを披露。取組の方も結びで剣山下して綱の意地を見せてくれた。将軍から弓もプレゼントしてもらった。

45年1月に江戸を離れ、大坂に戻ってここでも大関を務めた。

引退後は大坂相撲の立て直しに力を入れて、有望な若手はどんどんと江戸相撲に出場させ東西交流を図った。

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