7代横綱

稲妻 雷五郎
(INAZUMA RAIGORO)


-幕下二段目付け出しデビュー-
本名は根本才助。少年期より身体頑丈で江戸年寄の佐渡ヶ嶽右衛門の弟子となる。

数え16歳の頃から巡業に同行していた。

その巡業での相撲が評価されたのか1821年2月、数え20歳で江戸本場所でデビューした際は幕下二段目付け出しの破格の待遇を受けた。四股名は槙ノ島。

当初は苦戦をしたが、徐々に力を付けて1824年10月に入幕。その時は雲州藩のお抱えで、稲妻という四股名に改名していた。


-吉田司家と五条家の対立-
順調に出世をし、1827年10月には大関昇進を果たす。当時は実力だけではなく年功序列の要素も含まれていた為、スピード出世であった。

ところが、思いがけないトラブルが起きる。大関昇進直前に五条家が「紫」の廻しと「注連縄」を稲妻に授与した。これは五条家版の横綱免許である。関西で力を持つ五条家と対立していた吉田司家はこれに反発。横綱免許の正統性を巡る両家の対立に巻き込まれる。

結局、吉田司家の主張が認められた。稲妻は28年11月、故実門人の称号と一緒に横綱免許を吉田司家から授与され横綱となった。相撲協会も横綱と公認されたのはこの吉田司家の免許状をもってという考え方である。


-阿武松と相撲繁栄期を支える-
6代横綱・阿武松とはライバル関係にあり、文政期から天保期まで相撲繁栄期を支えた。両者の江戸本場所での対戦成績は稲妻の4勝5敗5分け1預りとほぼ互角であった。


-土俵哲学-
若さと強さを兼ねそろえた横綱は独自の土俵哲学を持っていた。それは1831年に書き記した『相撲訓』にある。


「知性・仁徳・勇気」の3要素を重んじ、現在の相撲界に与えた影響も大きい。

当時の日本の識字率は世界最高水準にあったとはいえ、力士で読み書きができる者は少なかった。今にまで伝わる名訓を残し、俳句まで詠んだ稲妻は異色力士である。

1828年に引退した後は雲州藩相撲頭取を務めた。時代は幕末に向かい藩の財政が苦しくなり、思うようにいかない部分も多かった。

歴代横綱の中でも長寿である76歳で亡くなった。辞世の句は

「腕押しに ならんでや涼し 雲の峰」

但し「稲妻の去りゆく風や秋の空」ではないかという説もあり。

個人的には後者の方が辞世の句っぽい気がしてならない。

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