6代横綱

阿武松 緑之助
(ONOMATSU MIDORINOSUKE)


-加賀の大食漢-
故郷では大食漢として有名で、江戸に出て力仕事に従事していた。するとそれが、江戸相撲の年寄り・武隈の目に止まり角界入りする。

彼に関しては「あまりの大食漢のわりに出世が遅いので、一度武隈部屋を破門となり、故郷にも帰れないので自殺を決意、この世の名残にと入った飯屋でその食いっぷりを主人から見込まれて、錣山部屋に入門・・・」という話が広まっているがそれは嘘である。

名前は佐々木が姓ということまでは各種文献でも一致しているが、名前は不明。長吉という説もある。


-南部候から毛利候お抱えへ-
1815年、序ノ口からスタート。着実に力を付けて1822年に入幕を果たす。入幕するまではしばらく盛岡藩の南部候のお抱えだったが、24年からは長州藩の毛利候お抱えとなった。

24年10月に小結、25年1月に関脇、26年8月には大関に昇進する。

27年3月に長州は萩付近にある名勝「阿武の松原」を由来とする阿武松と四股名を変える。四つ相撲を得意としてこの頃は誰もが認める第一人者となっていた。


-39年ぶりの横綱誕生-
1828年3月吉田司家より横綱免許が授けられた。これは1789年の谷風、小野川以来となる39年ぶりの慶事。

実力はもちろん、人格者でもあり人気が高かった。

最大のライバルは稲妻雷五郎であり、三都(江戸、大坂、京都)で両者の対戦は観衆の熱い視線を受け、熱狂させた。

ただ、取り口は慎重で「待った」が多かった。当時は日常で誰とはなしに「待ってくれ」と言うと「阿武松じゃあるめえし」と言うのが流行した。随筆「甲子夜話」にも「待った、待ったと阿武松じゃあるまいし」という一節があるくらい。現代ではこういう力士は人気が出ず、審判委員に目を付けられてしまうが、この時代はまだ寛容だった。

1835年、数えで45歳まで横綱を務めて引退。

引退後は後進の指導にあたり、大関・湖東山ら優れた弟子を育て上げた。

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