68代横綱

朝青龍 明徳
(AKINORI ASASHORYU)


-横綱のイメージを破壊し創造した平成の大横綱-
従来までの横綱イメージを破壊、創造し圧倒的な強さを誇った横綱。21世紀初の横綱の斬新な言動はファンの間でも賛否が別れている。本名はドルゴルスレン=ダグワドルジ。

モンゴル中学柔道選手権で優勝し、スポーツに力を入れる明徳義塾高校に相撲部員としてスカウトされる。日本の関係者は朝青龍の兄であるスミヤバザルを狙っていたとされるが、父が才能あふれるスミヤバザルの日本行きを許さず、あまり期待されていなかったダグワドルジが日本行きとなった。

留学当初は勝手が掴めず、中学生部員にも勝てなかったが、最終的にはインターハイ3位の実績を残す。

3年生になり、年齢制限で試合に出られなくなり、明徳義塾高校の浜村監督が近畿大学時代の同級生だった若松親方(元大関・朝潮)に紹介し若松部屋に入門し、1999年1月初土俵を踏んだ。


-史上最速で横綱昇進-
朝青龍は稽古熱心で出世も早かった。

相撲教習所ではA(相撲経験者)、B(スポーツ経験者)、C(スポーツ未経験者)の3グループに分けられる。朝青龍はAに所属していたが、Aの稽古が終わるとB、Bが終わるとCに勝手に入っていき稽古を積んだ。

序ノ口、序二段、三段目と1場所で通過し、初の幕下上位となる2000年1月こそ3勝4敗と負け越しを味わうが、9月場所で新十両となる。

十両も2場所で通過し、初土俵から12場所で新入幕果たす。番付運にも恵まれ小結に昇進した01年5月、朝青龍は初日に横綱・武蔵丸と対戦。土俵際に追い詰められたが、逆転の下手投げが決まり横綱を破る。この一番は両親が見に来ていたこともあり、朝青龍自身が一番思い出に残る取組と振り返っている。

当時角界を牽引していた武蔵丸を新鋭が破り、新しい時代到来を予感させた。

2002年3月から関脇で11勝、11勝、12勝で7月場所後に大関昇進を決めた。所要22場所は年6場所制定着後は最速の記録である。

大関昇進後2場所目には14勝1敗で初優勝を飾ると、続く03年1月でも連続優勝を果たし、25場所で横綱昇進は最速記録を樹立となった。


-雑音を土俵の強さでねじ伏せる-
横綱には満場一致で推挙されたが、一部の横綱審議委員からは品格面で注文がついた。

問題はすぐに勃発し、2003年5月、横綱昇進後2場所目に旭鷲山に敗れると物言いをつけろとアピール、さらに戻る際に肩がぶつかりサガリを振り回す暴挙に出た。

翌7月の5日目には因縁の旭鷲山のマゲを掴み反則負け。横綱史上初の不名誉な結果となってしまう。そればかりか帰りがけに旭鷲山の車のドアミラーを故意か過失か不明だが破壊する。

暮れの12月にはモンゴルに無断帰国し元富士錦の先代・高砂の葬儀を欠席。

無断帰国など細かい事を挙げればキリがなくマスコミは朝青龍を強く非難し、すっかりヒール役になり、師匠・高砂も指導力不足、北の湖理事長も危機感の欠如と非難を受けてしまった。

雑音を力でねじ伏せるように04年は6場所中5場所制覇、05年に至っては史上初の6場所完全制覇、当時最多となる年間84勝、さらに前人未到の7連覇を達成。土俵の方では100点満点であった。

取り口はとにかくスピードが速かった。物理的なスピードもそうだが、頭のスピードも速く、技Aがダメなら技B、技Bがダメなら技Cと矢継ぎ早に攻撃を繰り出す。

研究熱心で全勝優勝をしてもビデオテープで取組を振り返り、初顔合わせの相手には34連勝と新参者であっても対策を充分して土俵に上がっていた。

特に全勝優勝をした2005年5月は一度も俵に足が掛からないという神懸かり的な強さで全勝優勝。このような例は古今に聞いたことがない。いつも13日目や14日目に優勝を決めてしまい千秋楽は消化試合という場所も多くあらわれた。


-サッカー騒動から引退へ-
2007年7月に21回目の優勝を決める。場所後に腰の疲労骨折を理由に巡業を休んでモンゴルに帰国。

しかし、骨折しているはずなのに元サッカー日本代表の中田英寿氏らと元気にサッカーをやっているシーンが日本のニュースに流れ、2場所出場停止を喰らう。いわゆる仮病疑惑である。普通にやるなら、まだしも豪快なジャンピングボレーシュートを決めていた。

精神的な問題を抱えていた事もあり出場停止中はモンゴルで過ごした朝青龍だったが、マスコミは一挙手一投足を追いかけまわした。さらに療養施設を確認しにモンゴルに出向いた師匠・高砂が帰国後に治療環境はモンゴルで問題なしとアピールする意図で

「モンゴルでダブルの虹を見た。虹のダブルアーチ!」
「モンゴルの温泉は肌がツルツルになる」

と発言したところお気楽と揶揄され、高砂が記者会見で着ていたパイロットシャツが話題になり販売元では品切れをおこすなど朝青龍フィーバーとなった。

それでも朝青龍は復帰場所の08年1月に優勝次点の成績を残すと3月場所では結びで白鵬との横綱相星決戦を制して22回目の優勝。

5月には白鵬との千秋楽結び決戦を制したが、ダメ押しをしたしないで両横綱が土俵上で睨み合いを演じた。

08年11月は怪我で休場し、進退を懸けて臨んだ09年1月場所、場所前の調子も悪く、白鵬との稽古では6連敗を喫するなど不安視されていたが、蓋を開けてみると初日から14連勝。千秋楽の本割では白鵬に敗れたが、決定戦では本割の立合いが嘘のような厳しい攻めで優勝。

9月場所でも白鵬との優勝決定戦を制して優勝したが、決定戦勝利後に土俵上で豪快なガッツポーズを行い賛否両論議論を巻き起こした。

10年1月は歴代単独3位となる25回目の優勝を決めたが、場所中に暴行事件を起こした疑いが浮上、責任を取る形で場所後に引退を表明した。

横綱としては最多の41の決まり手を繰り出し、スピード感溢れる相撲は1990年代からの力士の大型化を一時的にストップさせた。優勝回数25回、数多くのアンチファンの存在こそ大横綱の証明であろう。

その一方で、伝統的なファンの中には横綱イメージを破壊し創造していく朝青龍の活躍を面白く思っていなかった方々がいたのも事実。

評価の難しい個性派横綱ではあるが、功績もかなり大きい。

引退相撲では土俵にキスをしてガッツポーズをしながら花道を引き上げた。こんな横綱は良い意味でも悪い意味でももう現れない。

2014年4月現在はモンゴルレスリング協会会長を務めている。名誉会長時代にはロンドン五輪に駆けつけ、日本のファンに存在感をアピールした。



歴代横綱一覧に戻る