67代横綱

武蔵丸 光洋
(KOYO MUSASHIMARU)


-史上最長の55場所連続ち越し-
丈夫な鉄人力士で常に安定した成績を残し、55場所連続勝ち越しは史上最長記録となっている。本名はフィヤマル=ペニタニ。

苦労人で生まれは米国領サモアで6歳の時に一家でハワイに移住したが、サモア語しか解さなかった為、友達もなかなかできなかった。

8人兄弟で生活も苦しく、中学生の頃からアルバイトで家計を助ける毎日を送っていた。

高校進学後はアメフト選手として活躍し、努力次第ではプロ入りの可能性さえあったが、経済的な理由から大学進学を諦め、夢は途絶える。

両親を助ける思いで誘われた角界入りの話にのり、1989年6月に来日。日本の生活に慣れる期間を設けてもらい、武蔵川部屋から9月に初土俵を踏んだ。


-十両昇進以来、負け越し知らずで大関昇進-
1989年11月に序ノ口に出て、7戦全勝で優勝。初の幕下上位となった90年9月に初めて負け越すが、この負け越しを最後に55場所連続勝ち越しをスタートさせる。

幕下上位の頃からハワイの先輩である大関・小錦に目を掛けてもらい、かわいがってもらった。

91年9月に新十両。幕下上位で苦戦したが、そのぶん蓄えられた力が十両昇進後に爆発し、その場所は11勝4敗で優勝、続く11月も10勝5敗で十両はわずか2場所で通過。

92年1月に新入幕を果たす。突き、押しの威力も充分だが、四つに組んでも力を発揮するタイプで安定感抜群だった。

小錦、曙のように大きなインパクトはなく、外国人力士にしてはどちらかというと地味な存在。

93年11月に13勝2敗で曙とのハワイ出身同士の優勝決定戦に進出し敗れたものの、94年1月にも12勝3敗の成績を残し、場所後にライバル・貴ノ浪と一緒に大関昇進を決めた。


-貴乃花時代から朝青龍時代の間を支えた-
大関昇進3場所目の94年7月、初の優勝を全勝で飾る。全勝は89年9月の千代の富士以来だった。

その後も優勝こそないが、安定した成績を残し続け、94年5月〜95年11月までの10場所で119勝という成績を残す。単に突き押すだけではなく、四つに組んでも強さを見せる武蔵丸ならではの成績。

96年11月には成績こそ11勝4敗、いつもの武蔵丸の成績だったが、ライバルが崩れ5人による決定戦に進出し、これを制して2回目の優勝となった。

名大関として安定感を発揮していた大関31場所目の99年3月に優勝、続く5月も優勝し連続優勝で大関在位32場所の後に横綱昇進を果たした。

32場所の大関在位は横綱昇進者としては琴櫻と並んで最長となっている。貴乃花、曙といったライバルの力が落ちてきたという部分もあるが、常に安定した成績を残し続けた武蔵丸ならではの昇進だっただろう。これで横綱は豪華4名体制となった。

横綱昇進後は残りの貴乃花、曙、若乃花の3横綱の衰え、引退で角界を牽引。苦労して横綱に昇進した力士にありがちな、昇進後せいぜい1、2回優勝して引退というパターンどころか優勝回数を12回まで伸ばす。

武双山、出島、雅山といった武蔵川部屋の弟弟子が大関昇進し対戦相手の面でも優位に立てた。

2000年1月に怪我による途中休場でついに連続勝ち越し記録は55でストップしたものの、2014年12月現在最長記録となっている。

02年5月に大怪我を負った貴乃花に優勝決定戦で敗れた時には「弱い」と非難を受けたが、02年9月の千秋楽相星決戦できっちりとリベンジを果たしている。

その優勝が最後になり、03年11月場所7日目を最後に引退。

土俵の主役の座はこの後、朝青龍へと移る。厳しい時代の移り変わりの時期に相撲界を支えてくれた。ライバル・貴ノ浪との対戦回数は58回に及んだ(対戦成績は武蔵丸の37勝21敗)。引退後は一代年寄・武蔵丸を名乗った後、振分を襲名して藤島部屋にて後進の指導にあたり、後に武蔵川を襲名し武蔵川部屋の師匠となっている。

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