63代横綱

旭富士正也
ASAHIFUJI SEIYA


-平成第1号横綱-
柔軟な体とうまさで魅了し、津軽なまこの異名を持つ横綱。平成時代最初の横綱でもある。本名は杉野森正也。

相撲好きの父親の影響で幼い頃から相撲に打ち込み高校3年で国体少年の部個人3位の成績を残す。卒業後は近畿大学に進学。

西日本学生新人選手権大会で優勝、西日本選抜学生相撲大会でも2位に入るなど順調に見えた。しかし、名門大学相撲部の合宿所生活に馴染めず、2年次に退部、大学も退学した。

一度故郷の青森で漁業に従事していたが、相撲のトレーニングは個人的に続けていて、それが元大関・旭國の大島親方の目に止まりスカウト。

大島部屋は新設部屋だったこともあり弱小で厳しい仕来たりもなく、雰囲気も気にいり入門した。

81年1月に本名の杉野森で初土俵を踏んだ。


-病気を克服し大関へ-
実力は確かで3月に序ノ口優勝、5月には序二段で6勝、7月の三段目でも全勝優勝とスピード出世をする。幕下も3場所で通過し、82年3月に初土俵から8場所目での新十両。

十両では多少苦戦し、在位6場所の後、83年3月に新入幕を果たした。

体の柔らかさとセンスの良さは新入幕当初から話題で既に大関候補と目されていた。

力はそれ程強くなかった為、パワーアップを狙ってバーベルトレーニングや体重アップを敢行。しかし、体重アップが裏目に出て膵臓炎を発症。精彩を欠き伸び悩む時期もあった。

87年に入ると体調も回復し、5月場所で10勝5敗。これを足掛かりに、7月11勝、9月12勝で場所後に大関昇進を決めた。


-昇進見送りにもめげず、角界の最高位へ-
プレッシャーのかかる新大関の11月場所で11勝、次の1988年1月千秋楽、それまで1勝20敗と大の苦手であった千代の富士を寄り切り14勝1敗で優勝を決めた。

次の3月場所でも12勝3敗、横綱昇進でもおかしくない成績であったが、北尾事件の影響もあり見送り。9月は12勝3敗で優勝次点。11月も12勝3敗で優勝次点、89年1月は14勝1敗で優勝決定戦に進出したが、北勝海に敗れ優勝次点。

続く3月は13勝2敗で優勝次点、5月は13勝2敗で優勝決定戦に挑むもこれも北勝海に阻まれた。5場所連続優勝次点、成績は計64勝11敗で勝率.853。これは双葉山の横綱昇進前5場所の.842を上回り昇進していれば昭和以降の最高記録になるはずだった。

北尾騒動で横綱昇進基準が厳しくなっていなければ昇進した可能性が極めて高かったが…。しかも北尾こと双羽黒は同門力士。

横審の言い分は「負けた印象が良くない」とか「決定戦での負け方が芳しくない」と言ったもの。

さすがに気持ちが切れたのか7月から5場所連続8勝ないし、9勝に終わり「昇進させなくてよかった」という声も出た。

しかし、ここで終わらなかったのが旭富士。89年5月に14勝1敗で14場所ぶりの優勝。優勝するしか道がないことは誰よりも知っていた7月場所。

千秋楽で千代の富士相手にもろ差しになり、最後は投げの打ち合いで千代の富士の頭を押さえつけながらの下手投げが決まり、14勝1敗で2場所連続優勝。上手と下手の違いはあるが、千代の富士のウルフスペシャルのような技で決める劇的な結末。連続優勝で文句なしの横綱昇進を決めた。

横綱昇進直後の9月場所は北勝海との千秋楽相星決戦に敗れ優勝はならなかたが13勝2敗。その後も安定した成績を残した。

91年3月には全勝を続ける小錦を1敗で追い、まず千秋楽の本割でガブリ寄って並び、決定戦に持ち込む。決定戦でも得意技の肩透かしで逆転で横綱初優勝に輝く。

その後は膵臓炎が悪化し満足な相撲を取れず、92年1月場所に初日から3連敗で限界を悟り引退。

引退後は部屋を開設、伊勢ヶ濱として横綱・日馬富士を育てた。

歴代横綱一覧に戻る