62代横綱

大乃国康


-千代の富士の連勝を53で止める-
昭和最後の一番で千代の富士の連勝を止めた巨漢横綱。本名は青木康。

小中学校の時は柔道で活躍。特に中学校3年生では北北海道大会では優勝に輝く。この大会には後の61代横綱・北勝海である保志も参加していたが、保志が準々決勝で敗退した為、両者は対戦しなかった。しかし、これは学年別で行われていた大会で保志が単に2年生だから対戦しなかったという説もある。

1977年に町内に相撲巡業が来た際に見学に行くとその場で相撲をとらされ、それを耳にした大関・魁傑がスカウト。決め手は「柔道では飯が食えないよ」という殺し文句であったとされる。

78年3月、花籠部屋から初土俵を踏んだ。


-1場所で3つの金星を獲得-
1978年7月から本名の青木から大ノ国に改名。81年1月に幕下に上がり、元大関・魁傑の放駒が放駒部屋を創設し、移籍。

入門当初は100`前後であったが、どんどん体重が増えていき、1年で20`増えた年もあった。

82年3月に19歳の若さで新十両。一度は幕下に落ちたが、11月に復帰すると83年1月に十両優勝。83年3月には新入幕を果たした。

取り口は右四つに組み止めての寄り、左からの上手投げもあった。

83年11月、隆の里、千代の富士、北の湖の3横綱を撃破し一躍注目を浴び、3つの金星+殊勲賞を受賞。

大ノ国から大乃国に改名し臨んだ84年3月には再び3横綱を撃破し、横綱、大関候補に躍り出る。

三役と平幕上位で地力をつけていき、85年10月に10勝、7月にも12勝を挙げて場所後に大関昇進を決めた。


-横綱昇進後の大不振-
大関昇進後は余り目立つ存在ではなかった。右四つの形になれば強さを発揮するが、そうでなければ脆いところもあり、叩きにも弱かった。

もともと大関昇進前直近の3場所成績が31勝と師匠同様に甘めの昇進であったこともあり、非難の声も出た。

意地を見せたのは1987年5月場所。200`に到達した巨体を活かして全勝優勝を果たす。

その後の2場所も12勝、13勝と優勝こそなかったが、結果を残し9月場所後に横綱昇進を決めた。

直近の2場所で優勝がなかった為にに疑問視する声もあったが、3場所前に全勝優勝している点や真面目な土俵態度が高く評価された結果である。

横綱昇進3場所目に13勝2敗で2回目の優勝を飾る。その後は低迷し、優勝には手が届かなかった。

唯一輝いたのは昭和最後の一番となった88年11月場所千秋楽。53連勝中の千代の富士と対戦。持ち前の体格で圧倒し、連勝記録を止めた。前夜、放駒から「どうせ今のお前じゃ何をやっても勝てないんだから、ヒヤッとさせる場面くらいは作って来いよ」と言われたが、これが逆に闘志に火をつけたとされる。

取組後の報道陣のインタビューには「俺だって横綱だ」と珍しく声を荒げた。綱の意地である。

一方の千代の富士はと言うと対戦前夜、「明日は楽勝だと2、3軒飲み歩いていた」と本人は語っている。ちなみに既に優勝は決めていた。

大乃国不振の原因は体重増加による睡眠時無呼吸症候群や足の故障によるものである。

89年9月には皆勤しながら7勝8敗と負け越し。横綱が15日制で負け越すのは史上初の不名誉。

90年は3月場所から4場所連続全休、進退を懸けた11月場所では10勝5敗、優勝した千代の富士にも土をつけ最低限の仕事はこなした。

91年3月は12勝3敗で優勝次点。千秋楽に不振の大関・霧島に勝っていれば、決定戦。その決定戦は怪我で相撲を取れる状態ではない北勝海だったたけに実に惜しまれた。

91年7月場所8日目の相撲で安芸ノ島に敗れ引退。本人の自発的な引退だが、当時の理事長であった双子山理事長が余りの弱さに激怒し辞めさせられたという噂も出てくらい。

横綱での成績は155勝79敗105休、勝率.662。一度も東正横綱を務めずに土俵を去った。

引退後は一時的に5年限定一代年寄・大乃国を襲名、その後に芝田山を襲名し99年6月に独立。

弟子は順調に育っているとは言い難いが、無口な現役時代からは想像できない程しゃべらすと上手でバラエティ番組にも出演、相撲解説の分かり易さも定評がある。

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