61代横綱

北勝海信芳


-千代の富士と九重黄金時代を築く-
兄弟子・千代の富士との激しい稽古を積み、九重部屋幕内10連覇の黄金時代を築いた。本名は保志信芳。

中学2年の時に柔道で北北海道大会に出場、この大会には後の62代横綱・大乃国の青木も参加。大会では後の北勝海である保志が先に負けた為、両者の対戦はなかった。ただ、これは単に青木が3年の部に参加していた為、2年の部に参加した保志とはどうやっても当たらなかったという説もあるなど不明な部分も多い。

井筒親方(元横綱・北の富士)と父親が務める会社社長(保志の叔父という説もある)が知り合いであった為、中学2年の2月に上京し、中学卒業を待って初土俵を踏んだ。1979年3月のことである。


-千代の富士との猛稽古で横綱へ-
柔道の癖は既に抜けていて前に前に出る相撲が身に付いていた。序二段で優勝するなど出世は極めて順調で1980年3月には富士若と改名。するとその場所は大負けで1場所だけですぐに本名の保志に戻した。

幕下に昇進してからは千代の富士に胸を借り、猛稽古を積んでいく。保志は素質がずば抜けて良かったわけではなかったが、この猛稽古でそれを補っていった。

幕下では多少足踏みもあったが、83年1月に幕下優勝を決め、3月に新十両。7月は10勝5敗ながら決定戦を制して十両優勝、9月には20歳の若さで晴れの新入幕を迎える。

取り口は突き、押しを中心に前へと出る相撲。スピードもあり、番付運にも恵まれ3場所目には小結に。

84年は三役と幕内上位を行ったり来たりだったが、85年には三役に定着すると86年3月には13勝2敗で初優勝。続く5月も11勝、7月も12勝を挙げ5場所連続三賞受賞、場所後には大関昇進を決めた。同時に四股名を保志から北勝海と改名。

大関昇進後4場所目には12勝3敗で優勝、次の87年5月場所でも13勝2敗で優勝次点。さらには稽古熱心な態度面、これらが評価され場所後に横綱に推挙された。


-3場所全休から復活-
比較的スムーズに横綱まで昇進した北勝海。成績面では多少不安視する声もあったが、横綱2場所目となる87年9月に横綱初優勝に輝く不安の声を一蹴する。

88年3月にも優勝のチャンスはあったが、千秋楽本割で1差で追ってくる大乃国に敗れると、決定戦でも敗れて優勝を逃した。それでも常に安定した成績は残し、綱としての最低限の責任は果たしていた。

転機は88年5月場所14日目、前日まで11勝2敗と優勝争いに加わっていたが、支度部屋での稽古で腰痛を悪化させる。翌日の千秋楽は不戦敗で休場となった。

3場所連続全休となり、再起不能説まで出たが、89年1月場所で復帰すると、いきなり14勝1敗で見事な復活優勝を飾った。

復帰後は11場所連続2桁勝利、うち4回優勝と第一人者として君臨。89年7月は優勝こそ逃したが、兄弟子・千代の富士と史上初の同部屋横綱優勝決定戦が実現している。

91年3月は14日目を終えて大乃国に1差をつけてトップにたっていた。しかし、北勝海の左ひざの状態は極めて悪かった。幸運にも大乃国が大関・霧島に敗れ8回目の優勝が決まったが、結びでは旭富士に対して自ら後退しくように寄り切られた。決定戦にもつれ込めば、勝算がなかったのは明らかであった。

これが最後の優勝となり、怪我の影響で92年5月場所前に引退。北勝海の引退で大相撲は一時的に横綱不在となった。

引退後は年寄・八角を襲名し八角部屋の師匠として弟子を育成している。解説の分かり易さにも定評がある。2012年には理事に就任した。

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