60代横綱

双羽黒 光司


-未完の大器-
四股名は双羽黒だが、本名で取っていた時期が長く、北尾の方が通りはいいかもしれない。。本名は北尾光司。

歴代唯一の優勝未経験横綱であり、トラブルを起こして廃業に追い込まれた。

北尾は裕福な家庭の一人息子として育てられた。

幼い頃から体が大きく、夏休みの相撲部屋解放で立浪部屋を訪れた縁から中学卒業と同時に立浪部屋に入門。既に身長は193cm。

花のサンパチ組として北勝海、小錦、寺尾らと出世争いを展開していく。


-努力家か?稽古嫌いか?-
「末は横綱間違いなし」と言われ1979年3月に初土俵を踏む。

長身に加えて柔らかい足腰。ケタ外れの素質を武器に出世していく。

北尾は稽古嫌いで素質に頼る部分が大きかったとされることが多い。「素質の北尾、努力の保志(後の61代横綱・北勝海)」という言葉がその典型。

口癖が「故郷に帰らせてもらいます」だったと伝えられる。

本来なら親方が厳しく指導するものだが、斜陽の立浪部屋にとって北尾は頼みの綱。簡単に辞められては困ると、親方もついつい甘くなり、喫茶店で稽古をサボっていても誰も何も言わなくなってしまった。

脱走回数は3度を数えたが、なんとかなだめられて戻ってきた。

一方で常識的に考えれば、素質だけで横綱まで上り詰められるわけもなく、努力家であったという声も存在する。

例えば、腰痛に良いと聞けば太極拳を独学で学び、当時まだ珍しかったパソコンをいち早く購入し、データを活用していた。稽古も比較的熱心だったとする声もある。


-千代の富士への対抗横綱として期待を受ける-
北尾は1984年1月に新十両。9月に新入幕。11月には横綱・北の湖を破り殊勲賞を獲得。

85年11月場所は東関脇で12勝3敗、大関昇進を決める。3代目・羽黒山襲名を打診されたが、これを断っている。

86年5月に12勝、7月は千代の富士との優勝決定戦に敗れたものの14勝1敗。

優勝こそなかったが、この2場所の成績で横綱昇進が決まった。

横綱審議委員会側は優勝経験がない点、精神的な甘さがある点を挙げて、反対意見が強かったが、協会サイドは横綱が千代の富士一人であった状況に終止符を打ちたい思惑があり、協会が押し切る形で横綱昇進を決めた。

横綱昇進に合わせて、四股名を双羽黒に変更。立浪部屋が輩出した「双」葉山、「羽黒」山の四股名をミックスさせたもので考案者は元栃錦の春日野理事長。協会全体がいかに双羽黒に期待をかけていたか伺える。ただ、これに関しては「明らかに不自然」という声が当初から上がっていた。

横綱昇進後は良いところまでいっても、優勝には手が届かない。そのうちに北勝海や大乃国が横綱に昇進し、千代の富士に対する唯一の対抗という昇進大義は完全に失われた。


-騒動の末に廃業-
1987年10月12日、双羽黒の付け人7人のうち6人が脱走する事件が起こる。原因は双羽黒が趣味であるエアガンで打ったり、焼けた金属バットを押しつけたりと、「イジメ」が原因である。

事件はとりあえず双羽黒が付け人に謝罪をする形で決着がついた。

だが、これは序章に過ぎなかった。

12月27日、双羽黒は師匠とケンカ。仲裁に入ったおかみさんと後援会長を突き飛ばし、怪我を負わせた上に行方不明になる暴挙を犯した。

大晦日の31日に協会は双羽黒の廃業を発表。行方をくらましていた双羽黒も同日に会見。自らの口から廃業の理由を「親方との相撲道の違い」、「幕下のころからこの人にはついていけないと思っていた」と語った。

一方でこの騒動はほとんど全てのケースで立浪親方側の主張で語られる。両者の主張は食い違う部分も多い。近年は立浪親方側にもかなりの非があったのではないかという声も出ている。

引退後は国際冒険家、タレント、格闘家、ナイフコレクターなど様々な肩書で活動し、現在は立浪部屋付きアドバイザーとして外部から相撲界を支援している。


-騒動の余波-
優勝経験のないまま土俵を去った横綱・双羽黒。

角界へ与えた影響は大きい。

騒動以降、横綱昇進基準が格段に厳しくなる。63代・旭富士以降は70代・日馬富士まで一人の例外もなく2場所連続優勝でしか昇進は認められていない。

特に63代横綱・旭富士の悲運は有名である。

未完のまま一人の横綱が24歳で去った。これから全盛期を迎え、優勝回数も増えていっただろうし、貴乃花や曙など相撲フィーバーの担い手たちの壁になっていたはずだ。

彼が騒動で廃業していなければ、若貴時代は少し今とは様相が変わっていただろう。



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