5代横綱

小野川 喜三郎
(ONOGAWA KISABURO)


-輸送部隊の出身-
滋賀県大津市で生まれ育った小野川。本名は川村喜三郎。膳所藩の輸送部隊で活躍していた。数え15歳の頃に輸送で鍛えた力が認められて京都相撲頭取の草摺岩右衛門の弟子となる。


-師匠と同じ四股名に-
小車→相模川と四股名を変えなが、力を付けて大坂相撲に進出する。ここで大坂の頭取・小野川才助に預けられ、1779年小野川に改名する。

師匠の養子となった為で同じ名前でややこしいが、江戸時代では普通のことだった。

79年10月、江戸に進出して幕下二段目筆頭で番付にこそ名前を載せるが出場は回避。80年6月に上位力士が関西地方に興行へ行っている間に行われた花相撲で幕内として10戦全勝の成績を残した。


-谷風を破り、時の人に-
幕下二段目3枚目で迎えた1782年2月の江戸本場所7日目、63連勝中の谷風を仰向けに転がす大番狂わせを演じてその名は全国に知れ渡った。

これを機にトントン拍子で番付を上げて、85年11月には関脇に昇進する。谷風と好勝負を演じられたのは小野川だけであった。どちらかと言うと慎重な取り口で待ったも多く、人気はそれ程でも無かったと言われている。しかし、これは江戸での話。大坂、京都では人気者であったらしい。

谷風も小野川をリスペクトしていたようで、谷風の自宅にある床の間には小野川の画が掛けられていた。

実力は確かで左を差せば無類の強さを発揮した。また、谷風と共に寛政の大相撲黄金期を支えたことは大きな功績である。

89年11月には谷風と同時に横綱免許を授与された。


-谷風の死後-
谷風の死後、名実ともにナンバー1となるはずだった。しかし、肩を痛めた上に雷電という新たなライバルが出現。雷電には0勝2敗2預りと勝つ事は出来ず、1797年現役を退いた。谷風、雷電という大相撲史に残る大力士を前に「大相撲史上最強のナンバー2」とも称される。

引退後は久留米藩にて相撲頭取を務めて後進の育成にあたった。

歴代横綱一覧に戻る