59代横綱

隆の里俊英


-辛抱を重ねて最高位を手にした「おしん横綱」-
難病と闘いながら、晩年ついに横綱に昇進した経歴から「おしん横綱」と呼ばれた。本名は高谷俊英。

中学時代は砲丸投げと柔道の選手だった。高校1年生の6月に元横綱・若乃花(初代)である双子山がスカウトに来て入門を決意。この時は後の若乃花(2代)である下山少年も直前にスカウトされて双子山に同行していた。双子山がたまたま乗車したタクシーの運転手に「大きいのがいる」と紹介されたという説と最初から高谷少年サイドと入門の話がついていて、予定通りピックアップしていっただけという説もある。

45代と後の56代、59代横綱が同じ夜行列車に乗って東京を目指した。


-絶望の中の師匠の言葉-
本名の高谷で初土俵を踏んだのは1968年7月。若い頃からとにかく酒が好きで稽古の途中で抜け出しビールを一気飲みするなど日常茶飯事。稽古が終わればビールを3本飲み、ちゃんこと一緒にウィスキーを飲むという食生活。

未成年力士の飲酒は黙認されていた時代だっとは言え、当然体に良いわけはなく72年秋の健康診断で糖尿病が発覚する。

この時、既に幕下の地位にあった。幕下ながら稽古場では大関・貴ノ花をも互角に稽古する地力をつけていたが、よく食べてよく稽古するのが力士の強くなる条件だが、それが困難になってしまった。

力士にとって致命傷とも言える糖尿病。発覚しても隠す力士も少なくないが、隆ノ里は師匠に申告し、73年夏入院。一時は自暴自棄にもなったが、担当医から「高谷さん、先日、双子山親方から電話がありました。『先生、どうか隆ノ里を助けてやってください。隆ノ里は糖尿病さえ治れば、横綱、大関を目指せる力士なんです・なんとか隆ノ里を治してやってください』。そうおっしゃっていました。ですから、決してあきらめず、頑張りましょう」。

見捨てられたものと思っていた隆ノ里は一念発起し病との闘いを開始。酒を断ち医学書を読み漁って良いとされることはなんでもした。

ここらへんの部分が横綱確実とまで言われながら酒が原因で廃業した南海龍との分かれ目だったのだろう。

土俵に戻ってきた隆ノ里は74年11月晴れの新十両となる。


-糖尿病を克服し大関、横綱へ-
東十両3枚目だった1975年1月は初日勝ちのヌケヌケに成功し8勝7敗で勝ち越し。

75年5月に新入幕。

稽古場では無類の強さを誇るが、幕内では伸び悩み、79年7月から隆の里と改名。

取り口は右四つを得意とし、怪力は横綱、大関にも通用したが、一方で突き押し相撲には脆い部分もあった。

80年に入ると糖尿病が快方に向かい土俵も充実。猛稽古にプラスして科学的な筋肉トレーニングを導入。角界における科学的トレーニングのパイオニア的な存在となる。その効果で肩から胸に驚異的な筋肉がつき、「ポパイ」というあだ名がつく。そして大関候補として81年を迎えた。

大関候補は千代の富士に対してライバル心をむき出しにし、ビデオデッキを活用し徹底的に研究。81年7月から対千代の富士戦8連勝を記録した。

82年1月に12勝3敗の星をあげて場所後に大関昇進を果たした。9月場所では15戦全勝で初優勝。11月こそ綱取りに失敗するが、安定した成績を残し続け、83年7月は千秋楽で千代の富士との熱戦を制して14勝1敗の成績で2度目の優勝。場所後に横綱昇進が決まった。

この時、既に30歳。共に夜行列車に乗った若乃花(2代)は83年1月に引退していた。


-新横綱で双葉以来の快挙-
誰もが硬くなる新横綱の場所は初日から14連勝。千秋楽で千代の富士と横綱全楽日決戦となった。千代の富士を得意の吊りで下して、15戦全勝で優勝。新横綱の全勝は双葉山以来の快挙である。

「おしん横綱」と呼ばれるようになったのもこの頃。

この後も千代の富士と楽日に激闘を繰り広げたが、対戦成績は隆の里優位であった。

84年は1月こそ優勝したが、これが最後の優勝となった。新しい世代である昭和38年生まれの保志、北尾、小錦らのニューフェイスに対抗する力は残っていなかった。

86年1月、新鋭・保志に初日敗れたのを機に引退を決意。

引退後は年寄・鳴戸を襲名し、若の里や稀勢の里を育て上げた。

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