58代横綱

千代の富士貢


-国民栄誉賞を受賞した昭和最後の大横綱-
角界初の国民栄誉賞を受賞した英雄。

本名は秋元貢。幼い頃は陸上競技の短距離や三段跳びで活躍し、オリンピックも狙える逸材とまで言われていた。

中学1年の時に盲腸炎を患い、手術。その際に秋元貢の腹の筋肉が厚く、執刀医が手間取っているうちに麻酔が切れてしまうが、激痛を耐え続けた。ガッツに感心した病院の院長である岡本さんが元横綱・千代の山の九重と懇意だったことから少年を紹介し・・・という説が紹介されることもあるが、別の説もある。

ともかくやってきた九重は貢少年の素質を見抜き、両親を説得して九重部屋に入門させた。貢少年への殺し文句は「飛行機に乗せてあげるよ」だったと言われている。

台東区の中学に転校し1970年9月前相撲で初土俵を踏んだ。


-脱臼癖との闘い-
1970年11月序ノ口。四股名を大秋元とし、71年1月の序二段の場所から千代の冨士に改名した。師匠の「千代」と九重部屋が生んだ横綱・北の富士の「富士」からとられた。

力士生活をスタートさせたが、台東区内の陸上大会でも入賞し、中学卒業後は田舎に帰るつもりであった。逸材を手放したくない九重は卒業後に明大中野高校に通わせて時間を稼いだ。

土俵の方は年齢の割には成績は良好で少しずつ番付を上げていった。番付を上げるに連れて相撲の面白さも理解していき、高校は中退。相撲一本に絞る。

取り口は右からの強引な投げを打っていくものであった。鋭い眼光は下位の土俵では異彩を放ち、人はいつしか彼をウルフと呼ぶようになった。

74年11月に19歳の若さで新十両。75年1月に千代の「冨」士から千代の「富」士に改名。75年9月には20歳で新入幕を果たすが、かねてから苦しんでいた肩の脱臼癖の影響で1場所で十両へ逆戻り。

十両でも脱臼癖に悩み、2場所連続で4勝止まりとなり幕下に落ちた。幕下では2場所連続勝ち越しで十両に戻ってくるが、再十両でも苦戦を強いられ再入幕するのは9場所経過してからであった。

幕内の土俵に戻ってきた千代の富士は3場所目の78年5月場所で大関・貴ノ花を破り9勝を挙げて敢闘賞を受賞。場所後に小結に昇進した。

取り口は相変わらず強引な上手投げに頼るものだった。技のキレは一級品であったが、何分これが右肩への負担となっていた。

初の上位となった小結では負け越し、1場所で平幕へ落ちる。79年3月場所7日目にも右肩を脱臼し途中休場し十両転落。

79年5月場所の番付は西十両2枚目であったが、この場所は公傷ということで番付を据え置いてもらった上で休場しようと考えた。ところが、手違いもあり休場にならないことが判明。全休すれば幕下転落は確実であり、急遽3日目から異例の途中出場。左肩だけでなんとか9勝を挙げて1場所で幕内に戻ってきた。

素質は抜群ながら脱臼癖に悩み続ける千代の富士。見かねた師匠である元横綱・北の富士の九重は強引な投げを控えて、陸上で鍛えたダッシュ力を活かした鋭い踏み込みから前回しを取り素早く攻め出る相撲への転身を勧めた。

同時に徹底したトレーニングで脱臼の手術ではなく、筋肉を増強して筋肉の鎧を纏い脱臼再発を防止した。

これらが功を奏し、千代の富士は番付を上がっていく。


-ウルフフィーバー到来-
1981年1月、蔵前国技館はウルフフィーバーに包まれた。

関脇・千代の富士は初日から14連勝。千秋楽の相手は1敗の横綱・北の湖。館内は千代の富士を後押しする大声援がこだましていた。本割では北の湖が得意の形からの吊りで勝負を決めて両者は相星となる。

優勝決定戦では千代の富士が前廻しを取り、北の湖が寄ってきたところを上手出し投げで仕留めて初優勝が決まった。瞬間最高視聴率は65.3%を記録し、これは今に至っても大相撲中継史上最高の視聴率である。場所後に大関昇進も発表された。

この一番は悪の権化のような扱いであった北の湖をニューヒーローが破り、後に大横綱に成長していくという大相撲史においても大きな一番である。

大関昇進3場所目の7月に14勝1敗で2回目の優勝。前場所に13勝を挙げていたことも評価され、場所後に横綱栄進が決まる。

新横綱の場所は仙台での巡業で痛めた足首の怪我の影響で途中休場。復帰した11月場所では12勝3敗ながら優勝。これ以降千代の富士は11月場所において8連覇を達成している。

82年は4場所で優勝し、土俵の主役は北の湖から千代の富士へと変わっていた。

83年3月は大の苦手としていた隆の里戦の連敗を8でストップさせ、初の全勝優勝を成し遂げた。

この後、千代の富士は優勝のペースを落とし、一部からは限界説も飛び出るようになった。84年3月は途中休場、5月は全盛期をとうに過ぎた北の湖に一方的に寄り切られ、7月は脱臼で全休、9月は新鋭・小錦の突き押しに手も足も出ず土俵を割るという失態を犯し、横綱責任論まで噴出した。この一番も大相撲史の中でも屈指の衝撃の取組として有名である。


-昭和末期に土俵に君臨-
限界説が飛び交い、30歳を迎える1985年。ここから千代の富士の全盛期であった。

新両国国技館最初の85年1月場所で全勝優勝を果たすと、9月場所でも全勝優勝。この年は4回の優勝を数え、80勝をマークし当時のレコードであった北の湖の82勝に迫る。

体重は130`にも満たず、小兵の部類ではあったが、短距離ダッシュで鍛えた踏み込み、素早い攻めとキレ味鋭い投げ技は体格差を感じさせなかった。相手の頭を押さえながらの上手投げはウルフスペシャルと呼ばれ、他の力士の恐怖の対象となった。

85年〜89年の5年間で実に19回の優勝を重ねた。

88年に至っては歴代3位の53連勝を記録。記録は昭和最後の一番となった11月場所の千秋楽で大乃国に敗れてストップした。これがまた千代の富士は昭和の大横綱であり、平成時代のヒーロー・貴乃花とのコントラストを暗示しているように見えるのが興味深い。

89年3月は初日から14連勝したが、14日目に大乃国を上手投げで破った際に肩を脱臼。この時点で優勝は決まっていたものの、千秋楽の旭富士戦は不戦敗となり、左手にテーピングを巻いた状態で賜盃を手にした。

6月には愛娘の愛ちゃんが乳幼児突然死症候群で亡くなる悲劇に襲われたが、7月場所は首に数珠を巻いて場所入りし、12勝3敗の成績ながら決定戦で弟弟子の北勝海を下して優勝している。

9月場所では13日目に当時史上最多となる965勝目をマーク。この功績が評価され9月29日に海部首相より国民栄誉賞が授与された。協会は一代年寄の授与も表明したが、これは千代の富士が九重と相談の上で辞退している。

90年1月には30回目の優勝、3月場所7日目には花ノ国を倒して通算1000勝を達成。11月には31回目の優勝を決める。ついに大鵬の最多優勝記録にあと1回に迫ったが、これが最後の優勝となった。


-世代交代の一番に敗れ引退へ-
91年3月場所は腕の怪我で全休し、5月場所初日。

ファンの関心は3月場所で平幕ながら優勝争いに加わった18歳の貴花田といつ対戦するかという点に集まった。

大方の予想に反して両者は初日に激突。

貴花田は左からのおっつけで廻しを掴むと一気の寄りで千代の富士を寄り切った。国技館は座布団が舞い、熱狂に包まれた。まさに世代交代の一番であった。

千代の富士は3日目に貴闘力に敗れその夜、引退を表明。

引退会見では冒頭から言葉に詰まり20秒の沈黙の後、絞り出した「体力の限界!…気力もなくなり引退することに致しました」という言葉は日本中が涙した。

引退後は年寄・陣幕を襲名。師匠から部屋を受け継ぎ92年4月に九重として部屋を継いだ。

後世の力士への影響も多く、廻しに片手を置きながらスナップを効かせて塩を巻く仕草は平成の大横綱・朝青龍や弟子の千代大海に受け継がれた。朝青龍に関しては時間いっぱいの際の廻しを叩くポーズも真似をしている。

師匠として大関・千代大海を育て、協会では理事を務めた。

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