57代横綱

三重ノ海剛司


-幾多の苦難を乗り越えた苦労人-
大関から関脇に落ちる苦難を乗り越えて横綱になった苦労人。本名は石山五郎。

少年時代から貧乏で生活に困っていた。力仕事に従事しながら草相撲で賞品を稼いでいた父が亡くなるとますます困窮にあえいだ。

中学では柔道に励み、卒業後は東京のアルミ工場に就職したが、あまりにも仕事がきつく辞めて帰郷。

特に仕事もなく、いわゆるニートのような生活をしていたところ体の方がどんどんと大きくなり、腹いっぱい食べるには相撲しかないと判断し、出羽海部屋に入門した。


-オリジナル四股名で三段目制覇-
名門・出羽海部屋においてもともと素質は大したことないと判断されていた為、大きな期待はされていなかった。

1963年7月に初土俵。序ノ口に出たのは11月のこと。

成績はあがらず、序二段で13場所在位した。これではいけないと、四股名を石山から自ら考案した三重ノ海と改名。

改名からは成績は上向き、67年9月に三段目優勝を果たし、幕下昇進を決めた。この頃になってようやく期待の若手と認識され始めた。

苦戦が予想された幕下でもなかなかの星をあげていき、69年3月についに新十両。十両も3場所で通過し69年9月に晴れの新入幕となった。

左を差して右をおっつけるというスタイルも身に付いていった。


-大関の座を3場所で失う-
1970年7月、新小結で大鵬、玉の海の両横綱を破り殊勲賞。特に3日目の大鵬戦は前廻しを取ってからの一気の寄りで、大鵬を土俵下まで寄り切った。大鵬は右足を負傷し引退騒動にまで発展した。

三役と平幕上位を往復する日々が続いたが、少しずつ地力をつけていった。前頭10枚目まで落ちた74年9月場所では好調。11勝3敗1分の好成績を残した。この場所の11日目は二子岳戦は左四つがっぷりで動かなくなり、水入り、二番後取り直し、再度水入りという手順を踏みながら決着がつかず、戦後相撲界では珍しい引分を記録している。

1975年に入ると、スピードが増していき三役でも勝ち越すようになる。

特に11月は両横綱と貴ノ花と優勝争いを展開。貴ノ花、そして北の湖を直接対決で破り13勝2敗の成績で初優勝、場所後の大関昇進も決め慶事に沸いた。

大関昇進の場所こそ8勝7敗で凌いだが、76年3月、5月と左足首の怪我もあり2勝しか出来ず連続途中休場。3場所で関脇へと逆戻りとなった。

大関から関脇に降格したものが、横綱になった例は明治以降では唯一である。


-現役晩年に訪れた充実期-
大関から降格した直後の場所で10勝出来れば大関復帰という規定は当時から存在していた。

10勝を目指した1976年7月場所はなんとか意地で10勝をあげて1場所でカムバック。

大関復帰後も成績は今ひとつ。長い低迷期が続く。

力を発揮し出したのは78年から。ようやく2桁勝利の場所が増えていき、79年5月は13勝2敗で準優勝。

次の7月場所も初日こそ落としたものの、2日目から14連勝で決定戦に進出。決定戦では輪島に寄り切られるが、前場所の準優勝も考慮され場所後に横綱に推挙された。

31歳の高齢新横綱が誕生したが、巷では三重ノ海は3番手、4番手横綱という評もある。

しかし、この時期の三重ノ海は強く、新横綱の場所で11勝と一定の結果を残すと、11月は14勝1敗、80年1月は全勝優勝で強豪横綱ぶりを発揮していた。

この後、怪我で休場がちとなり、出羽海系横綱らしく潔く80年11月に引退した。横綱在位は8場所。期間は短かったが、全勝を含む優勝2回の成績を残している。

引退後は年寄・三重ノ海を名乗り、出羽海部屋から独立し武蔵川部屋を創設した。分家独立を認めない出羽海部屋の不文律を破った。

師匠としては横綱・武蔵丸を含む1横綱3大関を育て上げ、2008年から約2年間協会理事長も務めた。

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