56代横綱

若乃花幹士(2代)


-後の隆の里と共に角界へ-
人気と実力を兼ね揃えた横綱。本名は下山勝則。

小学校の時に津軽地方の少年相撲大会で優勝。中学校で相撲部で活躍していると、元横綱・若乃花の双子山親方が勧誘の為にサプライズ訪問。

後の若乃花(2代)こと下山勝則はもともと力士志望だったのでその場で快諾。心変わりしては困ると双子山はその日のうちに連れ出し東京へと向かった。

途中の浪岡で高谷という少年も加えて夜行列車に乗った。高谷少年は後の横綱・隆の里である。寝台車の中では逃亡を防止する為に双子山が下段、上段と中段に2人に少年が乗った。過去と未来の横綱が同じ寝台車の上下で寝たというのはこの時くらいだろう。もっとも双子山は一睡もしなかったとも伝えられる。

下山は高谷と共に1968年7月に初土俵を踏んだ。


-怪我と病気を克服すると一気横綱へ-
幕下までは順調に昇進したが、幕下では低迷を余儀なくされる。足首の怪我や対戦相手も強くなり、負け越しも経験した。

四股名を朝ノ花と改名し、十両を目指す。

幕下時代に寄る相撲を体得し、四股名を若三杉と改名し1973年7月に新十両。幕下昇進の頃は北の湖と並び、幕下のホープと言われていたが、ライバルは既に三役と平幕上位を行き来するところまで上がっていた。

遅れをとった若三杉だが十両は2場所で通過。一度は十両陥落するが、再び盛り返し、74年11月に西小結で11勝4敗の好成績で大関候補に躍り出る。

しかし、ここから肝炎を患い精彩を欠き低迷する。しばらく三役と平幕を行ったり来たりする日々が続いたが、76年9月から関脇として3場所連続11勝をあげて77年1月場所後に大関昇進が決まった。

77年5月には初優勝。その後も安定した成績を残し続け、78年1月、3月と連続13勝を挙げて、綱取りとなった5月場所。

14日目に北の湖と対戦。北の湖の右上手を切ると、その後も廻しを取らせず、攻めて最後は北の湖が取った上手で強引な投げに出たところを若三杉が上手から打ち返して最強横綱を破った。これぞ若三杉の真骨頂という相撲だった。

若三杉、北の湖ともに1敗で千秋楽を終え、賜盃の行方は優勝決定戦へと委ねられる。

決定戦では北の湖が盤石の体勢からの上手投げで3連覇を達成した。惜しくも敗れた若三杉だが、2場所連続で北の湖と決定戦を戦った事が評価され場所後に横綱に昇進した。


-抜群の安定感で優勝争いを盛り上げる-
若三杉は横綱昇進後に若乃花に改名。下の名前も幹士と変更した。

横綱昇進後も北の湖という絶対的な横綱がいた為に常に2番手横綱の地位を拭えなかった。

昇進3場所目の78年11月に北の湖の6連覇を阻止する全勝優勝に輝いたものの、北の湖の全盛期とあって優勝のチャンスは限られる。

79年と80年に一度ずつ優勝したが、その後は頸椎を痛めたこともあり休みがちになる。

ダメを押すように痔の悪化もあり、83年1月途中で引退を表明。29歳の若さだった。

角界の2であったことに違いはなく、初優勝から23場所連続で2桁勝利を挙げており、常に優勝争いに絡んで場所を盛り上げた。

引退後は間垣部屋を興し、協会でも理事を務めた。

2007年に脳出血で倒れる不幸に見舞われるが、史上6番目の若さで若ノ鵬が幕内昇進をした際には涙を流して喜ぶ姿が往年の相撲ファンの涙を誘った。

しかし、その若ノ鵬が大麻所持により解雇されると間垣も理事を辞職した。

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