55代横綱

北の湖 敏満
(KITANOUMI TOSHIMITSU)


-北の怪童と呼ばれた最年少横綱-
大相撲のTV中継が始まった1953年5月16日に北海道有珠郡壮瞥町に生まれ、中学在学中に入門し、数々の最年少記録を打ち立てた昭和の大横綱。本名は小畑敏満。

少年時代から体格が良く、スポーツ万能。柔道、野球、水泳はもちろん、巨漢ながらスキーもこなす当時小学6年生の怪童の情報を聞きつけた元大関・増位山の三保ヶ関が飛んでいき、入門を勧めると敏満少年はあっさりとOK。

敏満は勉強に身が入らなくなり背をの伸ばす為の昼寝ばかりするダメ中学生になってしまった。

他の部屋からも使いが来て勧誘を受けるが、敏満は「毛糸の靴下を編んでくれたおばちゃんのところに行くよ」と親方夫人の手作り靴下が効いていて、既に心は決まっていた。

三保ヶ関は敏満の中学卒業まで待てず、中学1年2学期終了後の66年12月に東京へ連れてくる。


-数々の最年少記録-
1967年1月、13歳で初土俵を踏む。両国中学に通いながらの力士生活がスタートした。初土俵から一貫して四股名は北の湖。彼が泳いでいた洞爺湖から取った。

中学卒業まで稽古は長期休みと日曜日だけで、それ以外の時は四股、鉄砲みしなかったが、ジワジワと番付を上げていき69年1月、東三段目5枚目の地位で6勝1敗の成績で幕下昇進。

不滅の記録である「中学生幕下」の誕生だ。

この間に新三段目の場所で7戦全敗を経験している。全敗経験者で横綱に昇進したのは北の湖だけである。

北の怪童はいくらちゃんこを食べても満腹にならず、寝る前に丼飯8杯・うどん大盛り2杯・お茶漬け2杯を食べて、翌朝「空腹で眠れなかった」と語った。

関取を目指す北の湖は幕下でもジリジリと番付を上げていき、71年1月に西幕下5枚目で6勝1敗の星を残すが、番付運が悪く東幕下筆頭に据え置かれた。しかし、これでめげない北の湖は3月に5勝2敗の成績で当時最年少記録となる17歳11ヶ月で十両昇進を決めた。

十両でも派手な大勝ちはなかったが、少しずつ番付を上げていき72年1月に当時最年少の18歳7ヶ月で新入幕を決めた。

幕内の土俵では当初は苦戦し十両に陥落することもあったが、左四つ右上手の型が固まり始めると、大勝ちはしないが番付を上げていく。

73年1月には当時最年少の19歳7ヶ月で新三役。この場所は上位陣の壁を破れず、1場所で平幕に落ちるが、すぐに復帰する。

73年11月に関脇として2桁勝利をあげて、いよいよ大関候補に名乗り出る。

74年1月、横綱・輪島、大関・貴ノ花、大麒麟らを総なめにして14勝1敗。当時最年少の20歳8ヶ月にして幕内最高優勝に輝いた。同時に場所後の大関昇進も当時史上最年少で決めた。

以前は押し相撲も見られたが、この頃には左四つの完成度が極めて高くなっていた。

大関は3場所で通過し、横綱昇進。

21歳2ヶ月にして角界の最高位に。現在も史上最年少記録である。この先この記録を破る力士が現れるのはいつになるのだろうか。


-憎たらしいほどの強さ-
横綱昇進直後は先輩横綱の輪島に分が悪かった。得意の左四つ右上手の体勢にはなるものの、それは輪島に「黄金の左」である左下手を与えることを意味している。

両者の対戦は前場所のリプレー映像を見ている錯覚さえ覚える程、必ずいつも同じ体勢になり、毎場所力のこもった大相撲になった。「輪湖時代」と呼ばれファンは熱狂した。これが両者がもっとも力の出せる体勢なのだ。

しかし、2年もすると北の湖が輪島を圧倒するようになり1強時代に突入していく。同時にファンは北の湖の対抗馬の出現を望んだ。

1977年1月は人気力士・貴ノ花に優勝決定戦で対戦。貴ノ花がモロ差しで寄り切ると満員の国技館は興奮の坩堝と化した。場内は座布団が舞い、この時の座布団の舞は三大座布団の舞に数えられている。

77年3月には北の湖が14日目に勝って優勝を決めた取組で座布団の舞が発生する異常事態が起きている。これは強すぎる北の湖に対するブーイングである。

78年は1月から5連覇を達成。「憎たらしいほど強い」と形容され、ファンのみならずアンチファンも増えていった。

北の湖がアンチファンを獲得した理由のひとつに負かした力士に全く手を貸さないことが挙げられる。これは「自分が負けた時に相手に手を貸されたら屈辱と思うからだ」と語っている。

北の湖の強さは際立ち、それでいて体も強く75年9月から37場所連続2桁白星という当時の歴代最長記録を保持している。

81年夏巡業で肘を痛め、それが原因で81年11月場所は途中休場。横綱昇進後7年以上経過し初の休場である。

82年に入ると北の湖も不振に陥り、悪役であったはずの北の湖にも徐々に声援が戻ってきた。「北の湖負けろ」一色だった場内から「北の湖頑張れ!」の声も聞こえるようになってきた。

82年11月は途中休場、83年1月も途中休場、3、5、7月は全休、9月も途中休場6場所連続皆勤なしとなり、いよいよ引退かと言われるようになる。

背水の陣で臨んだ11月は11勝4敗で徳俵から巻き返すも、84年1月は8勝7敗。北の湖を支えていたのものは85年に完成する新両国国技館であった。新両国国技館の落成式で三構えをやりたいいう思いで再起をかける3月は10勝5敗。かつてなら批判されていた10勝も周囲は「よくやった北の湖」と褒めるようになっていた。

「負けろと言われていた頃はこっちも燃えて来る性格だから良かったのだが、引退間際になって頑張れと言われた時は自分でも情けなかった。そのために勝ちたいという意欲も薄れてきてしまっていた」と北の湖自身も振り返る。

5月場所では思い出したように勝ちまくり、15戦全勝で24回目の優勝を決めた。これが最後の優勝となり、85年1月念願の落成式で三段構えを演じ、2日目に多賀竜に敗れたところで引退。

31歳であったが、横綱昇進から10年4ヶ月、在位は史上最長の63場所。常人には想像も及ばないプレッシャーがかかる横綱、既に限界であった。

引退後に一代年寄・北の湖が協会から送られ、北の湖部屋を興している。

師匠として6人の関取を生み出している。日本相撲協会理事長も務め、公傷制度の廃止を実施した。在任中は不祥事も多く、任期途中での辞任にも追い込まれ、さらには八百長問題では引き取った木瀬部屋出身力士の関与が判明し理事も辞職した。

2012年より再び理事長に復帰し、協会の先頭に立っている。

歴代横綱一覧に戻る