54代横綱

輪島 大士
(WAJIMA HIROSHI)


-ただ一人の学士横綱-
71名を数える横綱で唯一の学士。本名は輪島博。

「黄金の左」と称される左下手投げを武器に14回優勝に輝き、北の湖と共に「輪湖時代」を築いた。

国体少年の部で優勝し、高校卒業後に日大に進学。日大時代は道場の隣にあった花籠部屋で下位力士と稽古を積み1968年、69年と連続学生横綱となる。左下手で有名な輪島だが、学生時代は右四つの力士でモデルチェンジしたのはプロになってからだそうだ。

日大在学中から双子山部屋の十両・貴ノ花を稽古で破るなど既に型破りな実力を身に付けていた。相撲界の常識ではいくら強い学生でも現役関取に勝てるはずがないというものだった。

輪島は花籠部屋に入門。スーパールーキーの入門にマスコミはもちろん多くの相撲ファンが詰めかけた。待遇も特別で幕下60枚目格付け出しではあったとは言え、雑用は免除され集団生活ではなく大学の宿舎から通っていた。


-期待に応える超スピード出世-
スーパールーキーは1970年1月場所、7戦全勝で幕下を制し、幕下8枚目まで昇進。幕下上位の壁も関係なく7戦全勝で連続優勝。わずか2場所で十両昇進を決めた。

十両、幕内とも昇進直後は多少苦戦をし負け越すこともあったが、すぐ水に慣れて番付を上げていく。72年5月に関脇で初優勝。成績は12勝3敗で15場所目で幕内最高優勝に輝く。

9月場所でも優勝こそ逃したが13勝2敗とし、場所後に大関昇進を決めた。

輪島の勢いは止まらず、大関でも3場所目の73年3月に13勝2敗、極めつけは5月場所で横綱・北の富士を得意の下手投げで破り15戦全勝で優勝。場所後に横綱昇進を決めた。


-「輪湖時代」を築く-
横綱昇進後も2場所目の1973年9月に全勝優勝。11月も初日から12連勝。12日目の取組でに亀裂骨折し13日目に敗れたがこの日に優勝が決まり14日目からは休場。千秋楽は包帯を巻き賜盃を抱いた。

輪島時代到来かと思われたが、強力なライバルが出現する。北の湖である。当初は問題にしていなかったが、輪島の3場所連続休場後は北の湖も力をつけ、熱戦が繰り広げられた。

76年、77年の千秋楽結びはすべて輪湖対決。「輪湖時代」である。

76年は両者合わせて149勝(輪島77勝+北の湖72勝)。
77年は両者合わせて155勝(輪島75勝+北の湖80勝)。

両者の対戦は常に同じ体勢になる。輪島が左の下手を引き、北の湖が右上手を引くというまさに先場所のリプレーを見ているようだという取組が毎場所続いた。両者にとって一番力の出せる体勢での熱戦は「輪湖時代」と呼ばれファンを熱狂させた。

輪島は成長する北の湖の勢いに押されながらも、要所で存在感を見せつけ14回の優勝を重ねた。これは2012年現在で歴代7位の記録である。

大関昇進の際には協会使者に言うセリフを忘れて師匠に助けを求めたり、外車で国技館に乗りつけたりと話題に事欠かさない人物であった。

下手投げの力士は大成しないというジンクスも破った。

81年3月場所途中で師匠が停年ということもあり余力を残し引退。花籠を襲名する。


-前代未聞の不祥事で角界を去る-
部屋を継承し審判委員も務めていたが、1985年11月に妹の経営する料亭の借金の担保に花籠の年寄名跡を入れていたことが判明、大問題となる。協会は事態を重く見て、2階級降格処分と無期限謹慎処分を言い渡し、12月には角界を去った。

担保の一件だけではなく、自身の金銭問題、現役時代からの豪遊などもかねてから問題視されており、合わせ一本のような形となった。

とは言え優勝回数14回。北の湖の壁となり、角界への貢献度は非常に高い。

角界を去った後はプロレスやタレントとして活躍し、特にタレントしての活躍ぶりは有名である。


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