52代横綱

北の富士勝昭


-香車の異名をとった攻撃相撲-
前に前に出る相撲が持ち味でその姿から香車のあだ名を持っていた横綱。本名は谷口正夫。

中学までは豪球投手としても知られていたが、肩の故障と千代の山の後援会会長である村上さんの誘いで出羽海部屋に入門。

「東京に行ける」と喜んだのは良いが、行くまでの船酔いで体重が激減してしまった。結局新弟子検査は合格出来なかったが、当時の自費力士養成制度に助けられ、初土俵を踏んだ。

この制度は協会から支援がなく、親方が自腹で弟子を養成する制度で北の富士入門直後に廃止された。なお、次の新弟子検査では合格し、協会から出羽海部屋への支援はきちんと開始されている。


-出世の見込みなく解雇寸前に-
前相撲は2場所で通過し、1957年5月場所で序二段として番付に名前が載る。

しかし、相撲経験が皆無な上に線も細かった為に番付は思うように上がらなった。三段目に上がるのに2年を要し、期待になかなか応えられない。

そればかりか当時あった「初土俵から30場所以内に幕下昇進出来なければ解雇」の規定に引っ掛からんばかりの勢い。

本人の奮起もあり29場所目の61年7月場所で幕下昇進を果たす。

ここからは下積み時代の苦労が実を結び、幕下は9場所で突破する。幕下時代に四股名を北の冨士に改名した。


-騒動を乗り越えて-
1963年11月場所で史上3人目となる十両全勝優勝を達成する。

64年1月場所、鳴り物入りで新入幕。その場所でいきなり13勝2敗の星を残し、敢闘賞を受賞。

一気に小結に昇進した3月はさすがに横綱を含む上位力士を前に負けが込み、4勝11敗で三役陥落。

65年までは三役に定着出来ないでいたが、徐々に体重も増え、安定感が生まれていった。拳銃を密輸してしまったこともあったが、協会からは事実上のお咎めなしで済んだ。

66年7月場所後に大関昇進が決まる。さしたる成績は残しておらず、直前の3場所は8勝→10勝→10勝という具合であったが昇進した。

67年1月場所後に起きた九重独立騒動では悩みに悩んだ末に元横綱・千代の山の九重についていくことを選んだ。

独立後最初の3月場所では初日から12連勝。14日目でかつての兄弟子・佐田の山を取り直しの末に破り14勝1敗で初優勝を飾る。十両でも九重部屋の松前山が優勝し、今も続く九重部屋は会心のスタートを切った。


-不振から脱して玉乃海と同時横綱昇進-
優勝で気が抜けたわけではないだろうが、5月場所、7月場所と連続して負け越す。当時、大関はは負け越し2場所まではセーフで3場所目が角番というルールだった。

背水の陣で迎えた9月は四股名を北の冨士から北の富士に変更して臨む10勝5敗で角番は脱出。

その後も成績は9勝や10勝が中心で土俵では輝かなかった代わりに低音を活かした歌手活動は精力的に行い『ネオン無情/チャンコ花唄』は50万枚を売り上げ、歌番組に歌手として出演したこともあった。

69年11月場所は13勝2敗で久々の優勝。続く、70年1月は決定戦で玉乃海と対戦。無理な吊りを仕掛けきたところを見逃さず外掛けで下して連続優勝。場所後に玉乃海と共に横綱昇進を決めた。


-ライバルの死とダメージ-
同時昇進した玉の海と共に「北玉時代」を築いていくと周囲は期待した。

期待に違わず、毎場所のように両者が優勝争いを繰り広げ、両雄の直接対決は大いなる盛り上がりを見せた。

70年の5月、7月は直接対決を制し、連覇を達成。逆に玉の海も11月及び71年1月にやはり直接対決で北の富士を倒して優勝している。

数年間は続くと見られていた北玉時代は71年10月11日に玉の海が現役死するという誰も想像していなかった形で終焉を迎えた。

ライバルであったが、土俵を離れれば親友であった玉の海の死に北の富士も落ち込み大泣きをした。

71年11月場所千秋楽は玉の海の四十九日の法要に当たる日で、13勝2敗で優勝を決めて法要に駆け付けた。

しかし、悪いことに11月場所中に反社会勢力とのつながりが発覚し戒告処分を受ける。

72年に入ると大不振に陥り、引退も考えたと言われている。

72年9月に全勝優勝するものの、この年の優勝はこの1回。

73年1月場所でも14勝1敗で優勝し、意地を見せたが、結局優勝はこれが最後になった。

怪我もあり、73年7月場所初日から2連敗したところで引退を表明した。

引退後は井筒部屋を興して弟子育成にあたり、元千代の山の九重が亡くなると九重部屋を継ぎ、千代の富士と北勝海の両横綱を育て上げた。

千代の富士に部屋を譲った後も理事として要職で活躍。協会退職後もNHK大相撲中継の解説者として大活躍している。


歴代横綱一覧に戻る