51代横綱

玉の海正洋


-悲劇の死を遂げた幻の大横綱-
双葉の再来とまで言われながら、27歳で現役死をした幻の大横綱。本名は谷口正夫。

幼い頃は体が弱く重病を患ったが、中学校では柔道部で鍛えて、病気知らずで育った。

高校進学直前に校長の知人であるカマボコ屋の竹内さんの紹介で玉乃海の内弟子として二所ノ関部屋に入門した。

もともと相撲に興味はなかったが、母子家庭で育った後の玉の海の正夫は母を楽にしたいという気持ちから出世を目指した。四股名は玉乃島。


-片男波独立騒動-
前相撲こそ2場所かかったが、その後は柔道で鍛えた投げ技を武器にどんどんと昇進する。

幕下まで昇進した玉乃島は1962年7月、片男波独立騒動に巻き込まれる。

この騒動は元玉乃海の片男波が「約束の通り」という二所ノ関部屋からの独立を求め、それを認めない二所ノ関が片男波に付いていく意思を見せた19人のうち9人の幕下以下の力士の廃業届を強行提出した事件である。玉乃島も片男波の内弟子であり片男波についていく気持ちであった。

玉乃島は有望力士ということで廃業届は出されず、元双葉山の時津風理事長の仲裁でなんとか解決の方向に事が進み、片男波は独立し、玉乃島は片男波部屋に移籍をした。

片男波部屋移籍後は大所帯の居候だった立場からも脱し、一層稽古にも熱が入った。

取り口も投げ技一辺倒から突っ張りや右を差して寄っていく相撲を覚え、長かった幕下生活を終え、64年3月には新入幕を迎えた。片幅も広くなり対戦相手は上手になかなか手が届かなくなっていった。


-同時横綱昇進で北玉時代到来-
1965年1月に新小結。この初日の相手は横綱・大鵬。玉乃島は内掛けで無敵横綱を沈めて、場内は座布団の舞が起こった。

この後、5月、7月にも大鵬に連勝しており、大鵬キラーとして人気を呼んだ。

特に三役で目立った成績は残さなかったが、1966年9月場所後に大関昇進を決めた。

昇進後はしばらく2桁勝利に手が届かないばかりか、負け越しも経験したが、68年に入ると充実の土俵。この年は6場所とも2桁勝利を挙げて綱取りに近付く。5月場所では13勝2敗で初優勝も飾った。

69年9月に2度目の優勝を飾り、綱取りのチャンスがやってくる。11月場所こそ10勝に終わったが、70年1月、決定戦で北の富士に敗れたものの優勝時点の成績を残し場所後、北の富士と同時に横綱に昇進した。


-突然の死-
昇進を機に玉の海に改名。

昇進後は毎場所のように北の富士と優勝争いを繰り広げた。

当初は北の富士に4連敗するなど力の差があったが、1970年9月場所に14勝1敗で横綱として初の優勝をすると、11月場所は北の富士を破り決定戦で大鵬と対戦。大鵬に左上手を与えず、吊り気味に寄り切り連覇を達成する。この寄りながらの吊りの技術は天下無双であった。

71年1月も初日から14連勝しながら大鵬に本割と決定戦で連敗し優勝はならず14勝1敗、3月は14勝1敗で優勝。5月は13勝2敗と常に大変高いレベルの成績を残し続け、7月は千秋楽結びで北の富士を相撲史に残る大相撲の末に下し、全勝優勝の偉業を成し遂げた。

しかし、既に盲腸炎を患っており、薬で散らして出場している状態であった。

9月場所も無理を押して出場し、千秋楽結びで北の富士に敗れ12勝3敗で優勝を逃す。

場所後に大鵬の引退相撲の太刀持ちを務め、すぐに入院。手術を受けたが、術後の10月11日の朝、肺血栓で亡くなった。

間違いなくこれから全盛期を迎え、70年9月からの6場所は84勝6敗と驚異の勝率を残していただけに実に悔やまれる。2005年に朝青龍も年間84勝をマークしたが、それと異なり北の富士、大鵬という強豪横綱がいた中での数字である。

ライバルであり親友でもある北の富士は玉の海の死を聞いた時に相撲解説者の玉の海さんの死と勘違いし、真実を知った時に大泣きをしたと言われる。

横綱の死に関係者も悲しみに打ちひしがた。死に顔は無念の形相だったと口を揃えた。

また、大鵬の引退相撲の際に自分の死を暗示する言葉を同じ二所一門の大麒麟、琴櫻に漏らしていたと複数の力士が証言している。

優勝回数はこれから大きく伸びただろうし、北の湖や輪島といった横綱の壁にもなっていただろう。相撲界にとっては大きな損失であった。本当に悲しい。

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