50代横綱

佐田ノ山晋松


-柏鵬を追う第三の男-
2名しかいない横綱昇進後の双葉山に連勝した力士の一人である元大関・五ツ嶋を筆頭に多くの実力派力士を輩出した五島列島出身の横綱。本名は佐々田(のち市川)晋松。

五ツ嶋に憧れ、角界入りを自ら志願。家は半農半漁であったが、父もまた無類の相撲好きで相撲の話をよく聞かされていた。

出羽海部屋に入門し、1956年1月場所で前相撲デビュー。ここでは思うような結果は出せず、翌場所も前相撲のはずであったが、どういうわけか翌場所の番付には序ノ口にしっかりと名前が記載されていた。


-突っ張りを活かして、23場所連続負け越しなし-
長身を活かした突っ張りを徹底的に鍛え上げ、番付を駆け上がっていく。徹底した突っ張りは付け人に付いた横綱・千代の山の教えと言われている。

当時の四股名は佐々田。佐々田は負け越すことを知らずに幕下上位まで到達する。

ここで親方や兄弟子は佐々田に四股名を付けた方が良いと考える。当初は五島列島出身の先輩力士に習って「五ツ」が入った四股名にしようとしたが、五島列島出身の力士は多く、「五ツ」は使い切っているということで本名を活用した佐田ノ山となり、後に佐田の山と改名した。

幕下までくると突き押しの威力も一層のものとなり、1960年3月には新十両。

十両でも2場所連続で2桁白星をあげて、これで23場所連続負け越しなし。24場所目こそ7勝8敗で負け越しを味わうが、一息ついて61年1月に22歳で新入幕を果たす。


-平幕優勝のジンクスを破る-
新入幕でいきなり10勝するが、3月場所は怪我で全休。

こうして迎えた1961年5月場所、前半で十両・清ノ森戦を含めて2敗するが、その後は立ち直り、横綱、大関に土がつく中、佐田の山は単独トップで千秋楽を迎えた。

千秋楽で小結・富士錦をモロ手突きで崩し、最後は叩き込んで仕留めて、13勝2敗で平幕優勝を飾った。

横綱、大関と対戦しなかったばかりか、十両力士にも敗れた為、話題となった。また、当時は平幕優勝をした力士は横綱に昇進しないというジンクスがあったが、これは後に佐田の山自身によって破られる。

関脇だった62年3月も13勝2敗で優勝。直近の3場所合計で30勝ながら大関昇進を決めた。

横綱を目指して奮戦した佐田ノ山であったが、やはり大鵬、そして柏戸の壁は厚く、昇進への道は一向に開かれない。

64年9月、11月とあと一歩のところで優勝を逃し、年が明けて65年1月場所。大鵬が前半で躓いたしたチャンスを見逃さず、14日目の直接対決で敗れたものの、13勝2敗で3回目の優勝を決め、場所後にはうれしい横綱昇進も発表された。


-突然の引退-
横綱昇進後も大鵬と互角に渡り合うとまではいかないにしても、連続して白星をあげるなど横綱としての意地を見せてくれた。

大鵬の隙間を縫うように優勝回数を積み上げて、柏戸を上回る6回の優勝を記録する。

1968年1月場所も優勝し、続く3月場所は不調で序盤で3敗すると、突然の引退表明。

30歳の若さで佐田の山は出羽海一門の横綱らしく潔く土俵を去ったのである。


-理事長、審判部長などとして活躍-
引退後は出羽海一門のトップの証である出羽海を師匠から継いだ。

先代からの弟子・三重ノ海を横綱に昇進させ、関脇・出羽ノ花を育て上げるなど弟子育成に務めた。

人一倍、一門意識が強かった一方で三重ノ海の独立を認めて、出羽海一門の分家独立を許さずの伝統に終止符をうつ。

協会では理事長職を務めて、協会トップとして巡業改革や名跡改革に取り組んだ。改革は反発もあり必ずしも成果を全て挙げたわけではないが、新規入門の年齢制限など今も生きているものもある。

理事長退任後に異例の審判部長も務め、三役で3場所34勝をあげながら琴光喜の大関昇進を見送り、改革に抵抗した二所一門への報復ではないかと憶測を呼んだりもした。何かと話題に欠かさない人物であった。

現在は停年退職をされたが、外部から相撲評論家として発展に寄与されている。

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