4代横綱

谷風 梶之助
(TANIKAZE KAZINOSUKE)


-客寄せからのスタート-

生まれは現在の仙台市若林区。本名は金子与四郎。実家は豪農であった。

ある日、川の架け橋の仕事をしていたところ、その怪力ぶりが巡業中の関ノ戸億右衛門の目に止まり角界入り。

1769年4月の江戸本場所で伊達ヶ関森右衛門の四股名でいきなり西大関デビュー。しかし、これは大きくて見栄えが良いということで「看板大関」、つまり客寄せの為である。当時の看板大関は平幕の実力もない者が大多数であった。

-江戸随一の大力士へ-
1770年11月には前頭筆頭に下がり、再出発。番付が前頭筆頭とされたところを見ると、看板大関でありながら実力も認められていた証左と言えよう。

1774年10月から三役に定着し、75年に谷風梶之助を名乗る。この四股名は2人目であり、先代の谷風も9年間無敗の強豪力士だった。

1778年頃からほとんど負けなくなる。1781年3月には実力で大関に昇進。歴代2位タイの63連勝を記録する。小野川に敗れ記録はストップするも直後から再び43連勝。

あまりの強さから「うちは谷風だよ」は「値引きしない(まけない)」を意味する流行語となったされる。ただし、これは先代の谷風の時の話という説もある。また、小野川に敗れた際は江戸市中が引っくり返る程の大騒ぎになったと言われる。

黄金カードであった小野川との対戦成績は江戸では6勝3敗3分け2預り3無勝負。大坂では1勝1敗2分け1預り、京都では3分け1無勝負。

-小野川と同時に横綱に-
1789年、小野川と同時に吉田司家より横綱免許を受ける。この事実から谷風を実質的な初代横綱と見る向きも多い。ちなみに当時の地位は関脇。これは看板大関がいた為である。この例からも江戸時代は最強力士が関脇の地位にあることは普通であった。

幕内勝率は驚異の.949。現在の年6場所制換算で言えば85勝5敗ペースをも上回る成績を残し続けた。横綱免許取得後に限れば55勝 2敗 5分 1預 2無勝負29休とわずか2敗しかしなかった。

映像も残っておらず、誰も見た事がないはずなのに、今なお史上最強横綱に推す声も少なくない。

1792年には将軍・家斉の上覧相撲を実施。結びは黄金カードの谷風-小野川。この一番は小野川の「気負け」で谷風が勝利し、谷風自らが弓取りを務めた(本来は勝った力士が弓取りをするもの)。

1795年、当時流行していた悪性インフルエンザを発病し現役のまま亡くなった。小野川より先に亡くなった為、代数は先に数えられた。

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