49代横綱

栃ノ海晃嘉


-小さな技巧派横綱として活躍-
時代は下り、1960年代に入れば大鵬、柏戸といった190p近い大男が土俵の主役であった。

そんな中で身長177cm、体重110`ながら綱を務めたのが栃ノ海だ。

栃ノ海は本名を花田茂広といい、幼くして父母を亡くしたが、兄弟と協力してリンゴ園を営んでいた。高校2年生のある日、出羽海一門が巡業で近くまでやってきて、そこにはかつての同級生だった春日野部屋所属の須藤(後の幕内・一ノ矢)が参加していた。

この須藤経由で栃錦と会い、そのまま巡業に参加し、入門となった。

この時、学校に連絡を入れていなかった為、登校しない花田を関係者は心配したが、1955年9月初土俵で一番出世を果たして関係者を驚かせた。同じ、青森、花田と言っても若乃花とは関係がない。


-大鵬を破り大関へ-
番付外でのアピールが効き、序ノ口を飛び越え序二段として番付に名前が載った。

幕下までは順調に昇進し、幕下では負け越しも経験したが、1959年1月に新十両。

十両では派手な大勝ちこそなかったが、新十両の場所から7場所連続勝ち越しを決めて、60年3月場所で晴れの新入幕となった。

この後、怪我もあり7月場所では十両陥落も味わうが、14勝1敗で十両優勝を果たし、1場所で幕内に戻ってくる。

取り口はスピードを活かし、前廻しを取ってかき回すものであり、負けん気の強さもかなりのものであった。

再入幕の60年9月場所で栃ノ海と改名。11月場所では技能賞を獲得して技巧派力士として広く認識されるようになる。

61年には技能賞を3度も獲得。ただ、かき回すだけではなく、切れ味鋭い足技を武器に大関候補に名乗り出た。技のキレというべきか、鋭さに関しては稀代のものがあった。

西関脇として迎えた62年5月場所は横綱・大鵬を13日目に破り成績14勝1敗で優勝。大関昇進を決めた。強烈な突き押しをかいくぐり、大鵬を破った一番は技巧派力士としての名を高めたが、この一番だけを見るのは不正確な見方である。

大鵬は12日目から栃光、栃ノ海、佐田ノ山と出羽一門との3連戦で3連敗を喫しており、出羽一門総攻撃の成果で名門である。


-横綱昇進と早過ぎる引退-
大関としてもまずまずの成績を残していた栃ノ海。大関時代には負け越しが1度もなく、同時期の不甲斐ない大関陣とは違う。

転機は1963年11月場所。

1敗で迎えた14日目に横綱・大鵬と対戦。モロ差しからの一気の寄りで無敵横綱を退け、2度目の優勝を飾った。

綱取りとなる64年1月場所は初日こそ不覚をとったが、その後立ち直り最終的には13勝2敗で場所を終える。

優勝した横綱・大鵬はもちろん、平幕で14勝1敗の星を残した清國よりも劣り、成績としては微妙で時期尚早という声もあったが、スピード感あふれる相撲、奮闘ぶりが評価され49代横綱に昇進した。

横綱昇進2場所目の64年5月場所、千秋楽で大鵬を得意の速攻で破り3度目の優勝を決める。順調なスタートかに見えた。

ところが、ここから横綱昇進時に一部から出ていた不安が顕在化する。

次の2場所を11勝、9勝と横綱としては不満足な成績に終わると11月場所では左足大腿部を痛め1勝も出来ず途中休場に追い込まれる。

65年は大崩れで年初から3場所連続8勝7敗と不甲斐ない成績に終わると、7月は途中休場。9月は意地を見せ10勝と復活の兆しも見えたが、11月も途中休場となる。

66年1月場所を全休し、後がない春場所では10勝を挙げてなんとか盛り返そうとするものの、5月は1勝も出来ず途中休場し、7月から2場所連続全休となった。

崖っぷちの11月場所は6日目までで2勝4敗という成績。坐骨神経痛や筋肉の怪我もあり、限界を悟った28歳の横綱は7日目に引退を表明した。横綱としては当時史上最年少での引退となった。

引退後は理事や事業部長を務め、中継での相撲解説も的確と評価は高かった。

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