48代横綱

大鵬幸喜


-優勝回数32回、戦後最強の横綱-
様々な大記録を打ち立てたレコードホルダー。昭和相撲史の主役であり、「巨人、大鵬、卵焼き」と子ども達からの人気も高かった。本名は納谷幸喜。

1940年5月にサハリンでウクライナ人の父と日本人の母との間に生まれた。当時はサハリンは日本領であった為、大鵬を外国出身横綱とカウントすることは皆無である。

終戦直後に北海道に渡る。当初は小樽まで小笠原丸で行くつもりであったが、幼い大鵬が「降りたい、降りたい」とぐずった為、やむを得ず稚内で船を降りた。なお、小笠原丸は小樽に到達する事なく、魚雷の攻撃で沈没している。

少年時代の苦労は大きく、納豆を販売し家計を助け、営林署に務めながら高校に進学した。

その頃、二所ノ関部屋の元力士である紅葉山の目に止まりスカウトをされ、入門。

線が細かった為、身体検査をギリギリで通過し51年9月に初土俵を踏んだ。


-早くから期待を受ける-
師匠である元佐賀ノ花の二所ノ関親方は大鵬の素質を見抜き、瀧見山を専属コーチのような形で配置し、徹底的に鍛え上げた。

前相撲こそ三番出世だったが、その後は1958年3月の三段目優勝を筆頭に、常に安定した成績を残し続け、負け越しなしで西幕下2枚目まで昇進した。

さすがに幕下上位では初の負け越しも経験したが、そこから3場所連続で勝ち越して59年5月場所で新十両となる。それまでは本名の納谷を名乗っていたが、新十両の場所から大鵬と名を改めた。

中国の故事にある「ひとつ羽ばたけば、十万里飛ぶ」という伝説上の鵬からとられた。師匠・二所ノ関はこの四股名を最も有望な弟子につけようと温存していた。


-柏鵬時代の到来-
1960年1月に19歳7ヶ月の若さで新入幕。するとこの1月場所では初日から11連勝。12日目に小結・柏戸と対戦し敗れはしたが、柏鵬時代の幕開けを告げた。

これ以降、相撲界は両者を中心に盛り上がりを見せていく。

大鵬の勢いは止まらず、関脇で迎えた60年11月場所では13勝2敗で初優勝。

61年1月場所に新大関。7月、9月と連覇を果たし、当時としては史上最年少の21歳3ヶ月にして横綱に昇進した。

ちなみに当時天竜三郎氏は大鵬の最終的な優勝回数を78回と予想していた。期待の大きさが分かる。

横綱昇進前は柏戸に対して3勝7敗と負けが込んでいたが、昇進後は事実上の大鵬1強時代となり、対戦成績でも圧倒することになる。

それとともに相撲界の人気もやや下火となる。

強い力士がたくさん揃っていて盛り上がるというのは今も昔も変わらない。


-出れば優勝の無敵横綱-
新横綱の1961年11月場所、62年1月場所も優勝してこれで4連覇。この後2場所連続でV逸をするものの、7月場所から翌年の5月まで6連覇。63年の5月場所は全勝優勝であった。

型がないという批判もあったが相手次第で柔軟に取り口を変えて白星を積み上げた。逆に言えば、しっかりと相手を研究していなければ取れない相撲であり、平成時代に大鵬の6連覇を塗り替え、7連覇を達成した朝青龍にもつながる部分である。

63年後半も優勝こそなかったが、12勝以上の成績を残し、64年も1月から3連覇。特に64年3月は柏戸との楽日全勝決戦となり大いに盛り上がった。

66年3月から再び6連覇を達成する。6連覇を2回も達成したのは明治以降は大鵬だけである。まさに土俵の王者。


-世紀の大誤審に泣く-
1968年に入ると怪我や病気に悩まされ初場所を途中休場し、3月から3場所連続全休。既に7年間横綱を務めており、限界説も囁かれたが、9月場所で復帰するといきなりの優勝。そればかりか、11月と69年1月も制して完全に息を吹き返す。

69年3月場所初日まで45連勝を記録する。2日目に戸田に敗れ記録はストップ。この一番は翌日の新聞で戸田の足が先に出ている写真が掲載され、誤審であるという認識が定着している。いわゆる「世紀の大誤審」である。

なお、立行司・伊之助は大鵬に軍配上げたが、物言いの結果差し違えで戸田の勝ちとされた。

大論争となりこれをきっかけに大相撲ではビデオ判定導入が早められた。

69年7月には柏戸が土俵を去り、大鵬自身にも衰えが見え始め、相撲人気はますます低迷する。

71年1月場所に12年連続となる優勝を飾る。これが最後の優勝となった。大鵬は新入幕の60年から引退する71年まで毎年優勝したが、これは最も破られにくい記録のひとつとされている。

71年5月場所5日目に新鋭・貴ノ花に敗れその日の夜に引退を表明。

一代年寄として大鵬部屋を創設した。協会の方では77年に脳梗塞を患いながらも、相撲への情熱で後に理事を務めた。

2013年1月19日、72歳で亡くなった。死後、功績が評価され国民栄誉賞が送られた。

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