46代横綱

朝潮太郎


-大阪場所で強さを見せた大阪太郎-
朝潮は生涯で5度、幕内最高優勝に輝いているが、実にそのうち4度は大阪場所だった。この事から「大阪太郎」の異名を持つ。

神戸市生まれだが、戦争の激化により父の郷土である徳之島に移住した。本名は米川文敏。

当初は相撲嫌いであったが、島で大会に出れば敵なし。アマチュア相撲関係者の仲介もあり、高砂部屋に入門し、1948年10月場所(戦後初の大阪本場所)に本名の米川の名で前相撲デビューした。


-殊勲賞を獲得し徳之島へ凱旋-
前相撲で他を圧倒した事が評価され序ノ口を飛び越え序二段昇進。トントン拍子の出世で1950年9月場所で新十両。

その新十両の場所でも14勝1敗で優勝。初土俵から8場所で新入幕を決めた。この時はまだ21歳だった。

入幕2場所目には初の負け越しを経験するが、ここから徐々に番付を上げていき、52年5月から朝潮と改名。

西前頭2枚目で迎えた52年9月場所では横綱・双羽黒をもろ手突きとノド輪で押し倒した相撲を含め、2横綱1大関を破り殊勲賞に輝く。

さらにうれしいことに殊勲賞獲得の場所後に高砂一門は徳之島への巡業を行う事になった。

当時は米国統治下であり海外。そう簡単に行き来が出来る状況になかった。英雄・朝潮の帰還に人口1万人の亀津に1万人の見物客が押し寄せたと伝えられる。

新関脇として臨んだ53年1月場所も千代の山、双羽黒の両横綱を撃破し11勝で2場所連続殊勲賞を獲得。

その後は三役に定着するも大関昇進への道がなかなか開けない状態で低迷期に入る。

55年1月場所は東前頭筆頭に落ちていたが、ここで3横綱を破り3度目の殊勲賞を受賞して久々に健在ぶりをアピールした。

番付運が悪く東筆頭に据え置かれた続く3月場所でも2横綱を破り上位キラーぶりを発揮していた。

56年1月場所から朝汐と改名。すると大阪で行われた翌3月場所では千秋楽まで優勝を争い巴戦に進出。最初に若ノ花が若羽黒を叩き込み、王手をかけた若ノ花に対して朝汐は右上手を引き付け寄り倒す。続く、若羽黒戦も危なげなく寄り切り12勝3敗で初優勝を果たした。

大関昇進を懸けた5月場所は大阪での快進撃が嘘のように8勝7敗と振るわず、大関とりは失敗に終わった。

57年3月場所。大阪では不思議と力の出る朝汐は9日目に鏡里との全勝対決を制し、若ノ花、栃錦といった力士も退け、13勝2敗で2度目の優勝と大関昇進を決める。

両脇を固め挟みつけるように押し出る取り口は「ニワトリを鶏舎に追い込むような形」と絶賛されていた。


-大阪の地で横綱に-
翌1958年も大阪場所で優勝し、これで大阪場所は3連覇となった。この頃には「大阪太郎」というニックネームが定着していた。

大阪4連覇を目指した59年の場所は栃錦に優勝をさらわれたが、それでも栃錦、若乃花の両横綱を破り13勝2敗。場所後に横綱に推挙された。この時、ついに胸毛のある力士は横綱になれないというジンクスは破られたのである。

横綱昇進後は新横綱の場所で10勝するものの、名古屋場所から腰痛で3場所連続全休。

60年名古屋場所からは朝潮と再改名し、浮上狙うが11勝が精いっぱいの場所が続いてしまう。

61年大阪場所は久々に好調で13勝2敗。横綱昇進後は初となる5度目の優勝を飾った。

腰痛に苦しめられ、「強い朝潮」と「弱い朝潮」の2人がいるとも言われた。無敵ぶりを発揮したかと思えば、横綱としてはあるまじき一方的敗戦を喫するなど、不安定であった。

62年初場所前に引退。高砂部屋を継承し、朝潮(4代目)、小錦、水戸泉らを育てた。



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