45代横綱

若乃花 幹士
(WAKANOHANA KANJI)


-強靭な足腰を持つ土俵の鬼-
「栃若時代」の一翼を担った土俵の鬼。本名は花田勝治。

青森県の実家はリンゴ園を経営していたが、室戸台風の影響で壊滅的な打撃を受け、一家で北海道室蘭に移住した。

後の強靭な足腰は高等小学校時代に細い足場を使う鉱石運びの仕事で養われていった。バランスを失えば即、海に落ちる環境だった。

1946年に二所ノ関一門の巡業に飛び入り参加し、下位力士を数名倒す。これが幕内・大ノ海の目に止まりスカウト。働き手を失いたくない父は反対したが、3年限りという約束で入門だった。


-稽古量で大関へ-
若ノ花の四股名をもらい、二所ノ関部屋の猛稽古で力を付けていく。

稽古は過酷を極め、廻し姿のまま脱走して隅田川にダイブしたという逸話も残っている。

1946年11月に初土俵を踏み、49年5月場所は新十両となった。初土俵から2年半。約束の3年を前に関取昇進を果たし、3年限りの約束は消え去った。

50年1月、新入幕。11勝して敢闘賞。この頃には日本中が注目する若手力士となっていた。

52年9月には大ノ海の芝田山親方が独立し、部屋を興した。若乃花も移籍したが、小部屋であるが故に稽古相手は幕下が中心になった。彼は何十番も取り、量で質をカバーしていく。

53年1月場所は西前頭3枚目の地位で8勝7敗ながら千代ノ山、東富士、羽黒山の3横綱を破り大きなインパクトを残した。しかも、決まり手は全て上手投げであり、平幕が横綱を四つ相撲の王道である上手投げで仕留める姿は観客をうならせた。

取り口は左四つ。時より見せる呼び戻しは代名詞ともなる。土俵に足がかかっても超人的な粘りを見せ、「カカトに目がある」といわれ「異能力士」と命名される程である。

55年9月場所11日目の横綱・千代の山戦は相撲史に残る熱闘となり、引き分けている。17分15秒の熱戦で場内は歓声と怒号に包まれた。

この一番で印象を良くしたのか、3場所をいずれも関脇で10勝→8勝→10勝だったが大関昇進が場所後に決まった。

若ノ花は大関昇進はないだろうと箱根に静養に出かけようと家を出たところで吉報を受けた為、伝達式は非常にドタバタしたものになってしまった。

-息子の死を乗り越えて横綱へ-
大関で2場所続けて好成績を残し、1956年5月場所は混戦の優勝争いの中、千秋楽で大内山を肩透かしで退け、決定戦でも大晃に勝ち初優勝を決めた。

初優勝を果たし、夏巡業を終えて帰ってきた1956年9月5日。父が帰ってきたと喜ぶ長男・勝雄君がチャンコ鍋をひっくり返し大火傷を負う。手当の甲斐なく翌日、勝雄君は亡くなった。3歳だった。

9月場所は迫っており、出場も危ぶまれたが若ノ花は首から数珠を下げて場所入りした。若ノ花出場の知らせに、ファンは涙し、連日大きな声援を受けた。

支度部屋では声を発さず、土俵上では鬼神の如き強さを見せて初日から12連勝。しかし、場所前に悲しみを忘れようと酒に浸ったのが中盤から響き始めて体調を悪化させていった。

13日目にはついに入院。千秋楽は出場の意思を見せていたが、これもかなわず出場を断念。13日目と千秋楽は不戦敗、14日目は休み扱いで12勝2敗1分け、実質無敗で9月場所を終えた。

57年9月場所より若乃花に改名。

57年11月場所で優勝次点、58年初場所で優勝し横綱昇進を果たした。


-栃若の横綱決戦で大いに盛り上がりを見せる-
1958年名古屋場所は栃若2敗で迎えた楽日決戦で右からの上手投げで勝利し横綱として初優勝。

59年は「栃若の年」。6場所全て千秋楽の結びで両者は対戦し、1月、5月、9月で若乃花が勝ち、他は栃錦の勝ち。いずれも勝った方がその場所の優勝者である。

60年3月の千秋楽は史上初となる両横綱全勝決戦となり、2分21秒の熱戦の末に若乃花が寄り切り8回目の優勝を全勝で決めた。

62年夏場所前に引退。


-最後に待っていたドラマ-
引退後は年寄・双子山として独立し、若乃花(2代)と隆ノ里の両横綱を筆頭に実弟である貴ノ花を大関に、若嶋津も大関に育て上げ、双子山部屋の一時代を築いた。

事業部長としてもかつてのライバルである春日野理事長(元横綱・栃錦)と二人三脚で相撲界を発展させ、88年2月からは理事長を務めた。

その理事長としての最後の92年初場所場では大きなドラマが待っていた。

甥である19歳5ヶ月の平幕・貴花田が史上最年少優勝。理事長として感極まり涙を流しながら天皇賜盃を授与した。この姿は「鬼の目にも涙」と往年の相撲ファンの涙を誘った。双子山自身も「夢のまた夢」と語り、相撲人生の最後を有終の美で飾った。

定年後は弟である貴ノ花に部屋を託し、貴ノ花は息子2人を横綱にして、空前の相撲ブームを到来させた。

歴代横綱一覧に戻る