44代横綱

栃錦 清隆


-戦後相撲界の大功労者-
横綱として、理事長として戦後相撲界を支えた大功労者。本名は大塚(のち中田)清

幼少時代のあだ名はなんと「すもう」。相撲だけではなくスポーツ万能で、特にドッジボールが強かった。

4年生から小岩町下小岩小学校の代表に選ばれ、6年生時には「昨年、一昨年も出ていた。体も大きいし、落第して残っているのだろう。落第生の出場は反則だ」という旨のクレームを相手校から受けるほど。

これを見た近所の青果商が春日野親方(元横綱・栃木山)に紹介して角界入りとなる。

「すもう」というあだ名でも、まだ13歳。身体検査は当日朝まで体重が1キロ近く足りなかったが、指導役である栃ノ峯のアドバイス通り、体重計に乗って針が止まらないうちにすぐ降りるという作戦でなんとか突破した。


-体格を猛稽古でカバー-
1939年1月初土俵。体重のない大塚は前相撲で苦戦。当時の前相撲は今のように顔を出せばOKなどと甘いものではなく、番付に載らないまま前相撲で力尽きる力士もいた。

7日目まで白星がつかず。担任の石井先生が大塚の友人を5、6名連れてきた中日は声援に後押しされて初白星。当時は前相撲は午前1時(午後ではなく午前、夜中の1時)に開始していたので、先生の行為も現在ではアウトだろうが、これもあって2勝で千秋楽を迎えた。

3勝すれば本中昇進なのだが、千秋楽は敗れる。大塚の挑戦は終わったかと思われたが、土俵したで待っていたところなぜかもう一度「おおつか」の名前がコールされた。

余り力士が出て、大塚に再チャレンジの機会が訪れた。大塚はチャンスをものにし、本中昇進を決めた。

体格で劣る大塚は激しい闘志と運動神経を活かした多彩な技で番付を駆け上がる。

40年1月に序ノ口に出る。

幕下上位では苦戦もしたが、1944年5月場所新十両。

新十両の場所は栃錦と改め勝ち越しを飾る。場所後に召集され横須賀の海兵団に入隊。

45年11月場所、十両4枚目格で復帰すると6勝4敗。次の46年11月場所は十両筆頭で6勝6敗1分けで幸運も手伝い次の47年6月場所では新入幕を果たした。


-7連敗後の8連勝-
1949年頃から幕内中位以上に定着し、技能賞の常連となり技巧派力士として名を広めていた。5場所連続で獲得したこともあり「技能賞は栃錦のためにある」とまで言われた。

51年1月場所、東前頭2枚目で迎えたこの場所は初日から7連敗。3横綱、1大関、3関脇が相手だったからある程度仕方ない部分もある。

この時、「栃錦ファンの息子は関取が負けると熱が上がり病がよくならない。子供のためにもぜひ勝ってください」という手紙を受け取る。

それを見て奮起した栃錦は8日目から豹変。連戦連勝で白星を重ねると、それに比例するように子供の病気も快復していく。

7勝7敗まで盛り返した千秋楽の相手は同じく闘志を前面に押し出す二瀬川。水が入る激戦を制して空前絶後の7連敗後の8連勝を達成した。なお、水入り時には観客の乱入もあった。


-名人横綱の誕生-
51年5月場所では213p の不動岩を半世紀に一度と言われる「たすき反り」を決める。

51年9月場所に関脇に昇進すると、3場所連続勝ち越し。大関候補として迎えた52年9月場所、初日から7連勝し、8日目には横綱・東富士を土俵際うっちゃりで制し、14日目にも吉葉山二枚蹴りで退け14勝1敗の初優勝を決めた。まさに名人技である。

場所後に大関昇進を決め、迎えた53年は大相撲TV中継がスタート。茶の間ファンの大きな楽しみは栃錦と同じく小兵技能派・若乃花との対戦であった。

水入り当たり前の両者の対決はいくたの名勝負を繰り広げ、戦後大相撲界最初の黄金期が訪れた。

栃錦は54年5月、9月に連続優勝を果たして横綱に昇進する。

横綱昇進の夜に栃錦は師匠の春日野から「今日からは毎日、辞める時のことを考えて過ごせ」と言われたとされる。

また、2場所連続優勝は横綱昇進の資格として充分であるが、当時は既に横綱が4名いることが問題視され昇進見送りの機運も出たが、結果的に東富士が引退することで栃錦が昇進した。


-昇進直後のスランプを乗り越えて-
横綱昇進後はスランプに陥り1955年5月場所の優勝を最後に8場所連続V逸の醜態を見せる。

55年5月場所は千秋楽で大内山相手に「蔵前国技館史上最高の一番」を制している。

57年から徐々に調子は上向き9月場所、13勝2敗で久々に賜盃を抱く。体重も増えて取り口も押し相撲の正攻法に変わっていった。

59年名古屋場所は初日から14連勝で千秋楽を待たずして優勝を決めた。栃錦の父は優勝祝いに向かおうとしたところ、交通事故に遭い死亡する。

千秋楽、何事もなかったかのように土俵に上った栃錦は若乃花を相手とせず寄り切り、生涯唯一の全勝を達成する。

栃若最後の対決となった60年春場所千秋楽は若乃花との横綱全勝相星決戦。軍配は若乃花に上がり、続く夏場所途中に引退した。

早過ぎるという声もあったが、晩節を汚さなかった師匠の教えを忠実に守った引き際である。


-理事長として7期14年、超安定政権-
理事長としての最大の功績は無借金で現在の両国国技館を建設したことが挙げられる。鹿島建設から11億5千万円の値引きを勝ち取り、150億円で建設した。

そもそも150億円なんてお金がどこから出てきたのかという話になるが、徹底した経費節約が挙げられる。

上がる物価に各相撲部屋は悲鳴を上げたことは想像に難くないが、春日野の熱意についていった。

さらに追い風が吹き、両国の土地所有者である国鉄は大赤字でどうにもならない状況。蔵前は両国より土地の値段が高く、高く売って安く土地を手にいれることもできた。

この他にも椅子席の待遇改善や一門の枠に囚われず、優秀な人材を要職に起用して長期政権を確立していった。

自身は現役時代あまり手を付かなかったが、立合いの正常化にも尽力した。

1988年、かつてのライバルであり引退後は二人三脚で大相撲を引っ張ってきた双子山(元横綱・若乃花)に理事長職を譲り、90年1月死去した。

協会は多大なる功績に対して協会葬で送りだした。

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