43代横綱

吉葉山潤之輔


-戦場から帰還し迎えた感動の雪中パレード-
優勝回数こそたったの1回だが、吉葉山ほど劇的な相撲人生を送った力士は稀である。本名は池田潤之輔。

家は漁業で比較的裕福であったが、大正末期に3年連続で不漁の年が続き、家は没落していく。さらに長男、次男、三女、四女と次々と兄弟を失う不幸ぬ遭う。

そんな中でも潤之輔は体が大きくなり、高等小学校卒業後に務めていた工場での相撲大会では無敵を誇っていた。

多分に洩れず噂を聞きつけた高島部屋の使いが勧誘するが、吉葉山は見向きもしない。

1938年1月に向学心から工場を辞めて、勉強をすつ為に東京を目指し、函館行きの列車に乗る。

ここで吉葉山は不思議な体験をする。自分の前の席に体の大きな少年が乗っていて聞けば高島部屋に入門するそうだ。吹雪に遭い途中の小樽で1泊したが、その少年は吹雪の中、1人外出したまま戻ることはなかった。潤之輔は仕方なく一人で列車に乗り、上野に到着をする。するとそこには高島部屋の力士2人が待ち構えていて、部屋に連れて行こうとする。

人違いを説明した潤之輔だが、力士2人も手ぶらで帰ると師匠を残念がらしてしまうので代わりに入門しないかと勧誘する。「とにかく部屋に行こう」と強引に押し切り、結局入門するはめになった。

-命の危機を脱して関取へ-
1938年5月場所で初土俵を踏む。前相撲では苦戦を強いられる場面もあったが、何とか三番出世の1場所で通過に成功する。

10月に盲腸炎と腹膜炎を併発し生命の危機に瀕する。ここは吉葉博士の手術で何とか九死に一生を得た。命の恩人に感謝し39年5月場所からは吉葉山と改名する。

各段優勝こそなかったが、順調に番付を上げていき、41年1月には幕下昇進。この場所で7勝1敗の好成績を挙げて、いよいよ注目される存在になってきた。幕下上位では多少の足踏みしたが、42年5月場所は幕下筆頭で7勝1敗の成績、十両昇進はもちろん、幕下優勝も決めた。


-地獄の戦場-
念願の関取昇進を決めながら、1942年6月に吉葉山に赤紙が届く。

中国各地を3年間転戦することになる。苦難の連続で左大腿部に銃撃を受けたり、殺虫剤を誤って飲み込んで危篤状態になったりしたこともあった。

45年8月15日にようやく終戦。ここからさらに1年近く捕虜生活を送り、46年6月に帰国。吉葉山の戦争が終わった。


-食べて食べて番付を駆け上がる-
とりあえず、両国に戻ったが部屋に帰ったところ幽霊と間違えられたほど痩せていた。死んだという情報が部屋に届いていた為でもあったが、実際に体重は65`まで落ちていてこれでは相撲にならないと1946年11月場所は番付から除外してもらい、ひたすら食べ続けた。この時代のあだ名は「胃袋」であった。

稽古も積んで迎えた47年6月場所は戦地に赴く前と同じ東十両四枚目格扱い。ブランクも心配されたが、ここで9勝1敗と信じられない成績で新入幕を決めた。この時代は周りの力士も食糧難で体力が減っていたこともあるが、それにしても5年ぶりの、それも実質新十両の土俵での大勝ちは称賛するしかない。

新入幕で迎えた47年11月場所でも8勝3敗と勢いは止まらない。続く48年5月場所も8勝3敗で幕内上位へ駆け上がる。

東前頭2枚目まで昇進して臨んだ48年9月場所は5勝6敗で負け越し。続く49年1月場所は7勝6敗で辛うじて1点の勝ち越しをするものの、次の5月場所では2勝13敗の大負けを喫する。

ここから猛稽古で鍛えなおし、平幕で3場所連続10勝を挙げて一気に関脇に昇進した。この頃には男前の顔も手伝い横綱、大関以上の歓声を受ける人気力士になっていた。四つ相撲も身に付いてきた。

連日のファンの後押しもあってか関脇で連続して13勝2敗の好成績で50年9月場所後に大関に昇進を決める。既に30歳であった。

大関昇進後は常に安定した力を発揮するも優勝には届かず、ファンをやきもきさせていた。


-大相撲史上最高の優勝パレード-
1953年5月は14勝1敗で優勝してもおかしくなかったが、関脇以上と一度も対戦がなかった東前頭6枚目・時津山に優勝をさらわれた。

54年1月場所。初日から14連勝で迎えた朝から大雪が降る千秋楽。横綱・鏡里と対戦し、大熱戦の末に勝利を収めて15戦全勝。遂に初優勝に輝いた。

東京の積雪は31.5pを計測。降りやまぬ大雪の中で全国からファンが詰めかけて行われた感動的な優勝パレードは「雪の全勝行進」とも呼ばれ大相撲史上最高の優勝パレードとして伝説となっている。熱狂ぶりは貴ノ花フィーバー、ウルフフィーバー、若貴フィーバーを超えていたとも言われる。

場所後に43代横綱に推挙される。33歳9ヶ月での遅咲き横綱である。

結局、優勝はこの1回だけであった。58年初場所9日目に引退。涙の引退会見は当時の相撲ファンの涙を誘った。

引退後は関脇・明武谷ら8人の関取を育て上げ、審判部長も務めた。

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