42代横綱

鏡里喜代治


-双葉山に育てられた太鼓腹横綱-
相撲人形のような太鼓腹がトレードマーク。本名は奥山喜世治。

父親が村会議員を務めていたが、その父が急死して以降は一家の大黒柱として畑仕事で母を助けた。

高等小学校時代は体格とは裏腹に陸上やバスケットをしていたというから単なる肥満児ではなかったようだ。

噂を最初にキャッチした大関・鏡岩が使いを送り、角界入りへ説得にあたらせたが、何度行っても母子は首を縦に振らず交渉は難航した。結局、使いは最後には「では東京見物にでも」と30円の旅費を強引に置いていった。

3年後、後の鏡里が17歳の夏に母子で使いの置いていった30円の返済の為に鏡里改め年寄・粂川の部屋を訪れると、大いに喜んだ粂川の熱心な説得と母子への丁重なもてなしで入門の運びになった。


-突如師匠が双葉山に-
1941年1月に初土俵を踏んだ。5月に序ノ口に出る。

すると場所後、角界に入って間もない鏡岩の人生を変える出来事が起こる。

師匠・粂川が弟子と部屋をそのまま双葉山に譲り、粂川部屋は双葉山道場に看板が掛け替えられたのだ。当然、師匠も双葉山に代わった。

これにより鏡里は入門早々から双葉山の指導を受ける機会に恵まれた。

42年1月場所、序二段を8戦全勝優勝で突破すると、43年1月場所では三段目でも8戦全勝優勝を飾った。5月には幕下に上がったものの、ここでは怪我の影響もありそう簡単には勝てず3勝5敗の負け越しに終わる。

この負け越しは鏡里に突っ張り一本では限界がある事を悟らせ、右四つ相撲を覚えるきっかけにもなった。


-召集令状、軍隊へ-
1944年5月場所後、鏡里のもとに召集令状が舞い込み、弘前六十九連隊に入隊。ここでも鏡里は真面目に働いたが、戦局の悪化と共に食糧難に陥り、みるみる痩せていった。

そんな11月のある日。ラジオで師匠・双葉山が東富士に敗れた事を知る。東富士には稽古をよく付けてもらっていた立場だったが、打倒・東富士をここに誓った。

12月に復員した。


-堅実な取り口で横綱へ-
復帰場所となった1945年6月場所は非公開であったが、ここを3勝2敗と勝ち越す。番付は応召前の幕下筆頭格扱いであった為、戦後初開催となった11月場所で新十両となった。

ここで師匠・双葉山が引退する。この際に鏡里は双葉山から横綱化粧回しのひとつを与えられている。

47年6月場所に新入幕。幕内では大勝はなく、負け越すこともあったが、じわじわと番付を上げていき東前頭筆頭で迎えた49年10月場所で12勝3敗の好成績を残す。殊勲・敢闘両賞を受賞した。この場所は師匠・双葉山に引導を渡した東富士を破って、戦時中からの宿願も果たした。

小結を飛び越えて昇進した関脇でも4場所連続勝ち越しと抜群の安定感を見せて51年1月場所後に大関に推薦された。

この頃には堅実な四つ相撲を身に付け、大関昇進後に5優勝こそなかったが、5場所連続勝ち越しを記録している。左でも取れたが、右四つの方が得意だった。

そんな中で迎えた48年1月場所は絶好調。初日に二瀬川に不覚を取るものの、そこからの14連勝で初優勝。場所前に師匠・時津風(元双葉山)に受けた立合いの指導が身を結んだ。場所後に横綱・照國の引退もあり42代横綱に推挙された。

-「10勝できなければ引退」公言通りの引き際-
創設されたばかりの横綱審議委員会の反対を押し切って横綱となった鏡里は同様に「甘い」批判された大関昇進時のように結果で雑音を封じたかったが、持ち前の安定感こそ出すも横綱としては物足りない成績が続いた。

1955年9月場所に14勝1敗で2度目の優勝で存在感を見せると次の56年1月場所でも14勝1敗で連覇を決めた。この後の2場所こそ低迷するが、9月場所ではまたしても14勝1敗で4回目の優勝を果たす。

57年は大崩れで年6場所制スタートの年だが、6場所で32勝しかできず、「10勝できなかったら引退する」と公言した58年初場所では9勝6敗に終わり公言通り土俵を去った。

鏡里の真面目さが伝わってくる引き際となった。

引退後は時津風部屋後継争いに巻き込まれ、最終的には立田川部屋を新設。師匠としては晩年に執念で黄道を関取にした。協会要職を務めて定年を迎え、最終的には横綱としては異例の80歳という長命を得た。

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