-部屋の方針で一人だけ満腹に食べる-
入門当初から186p、85`と当時としては考えられない体格で話題になった。

1942年1月に初土俵を踏んだが、ヒザの怪我もあり途中休場。5月に復帰し、47年1月にいきなり序二段に躍進して8戦全勝。

44年5月、新十両となり杉村から千代の山に四股名を変える。十両も2場所で通過し初土俵から9場所目で入幕は8場所の羽黒山に次ぐスピード記録である。

敗戦後、日本は悲惨な食糧難に見舞われた。力士も例外でなく多くの力士が激やせがした。

その中で出羽海部屋は千代の山に優先的に食糧を与える作戦を採用し千代の山は食糧難下でも体重を増やしていった。


-大関で連続優勝も横綱昇進を辞退-
新入幕の1945年11月は10戦全勝で衝撃の幕内デビュー。当時は同点の場合は上位力士が優勝であった為、羽黒山が優勝した。

46年11月場所は東前頭筆頭で10勝3敗、小結を飛び越えて関脇に昇進する。

次の46年6月場所は右ひざの怪我で全休して、前頭筆頭に降下、一度は関脇に復帰するが、三役では勝ち越せず、再び平幕陥落。

49年1月場所で関脇に返り咲くと、8勝5敗で勝ち越し。これで勢いを取り戻した千代の山は5月場所で12勝3敗と殊勲賞を受賞。場所後に大関昇進も決めた。

取り口は猛突っ張りで、羽黒山や照國を一方的に突き出すことも珍しくなった。

大関昇進後は四つも身に付け、新大関の場所で13勝2敗で初優勝、続く50年1月場所でも12勝3敗で連覇を果たした。

これで横綱確実と見られていたが、師匠の出羽海が「12勝の優勝というのが気に入りません。すぐに横綱になれる力士ですから、今回はご辞退致します」と声明を出し見送られた。

なお、大関で連続優勝しながら横綱に昇進しなかったのは千代の山が最後である。

これに千代の山は腐ってしまったのか、その後は9勝、11勝、8勝と精彩を欠く日々。

51年5月場所では場所前に四つ身を鍛えなおす猛稽古を積んだ成果が出て、14勝1敗の3度目の優勝に輝いた。

場所後に吉田司家にお伺いを立てず、協会が独自で横綱に推挙して初の協会免許横綱が誕生した。北海道出身者としても初の横綱である。


-横綱返上騒動-
横綱昇進後、千代の山は不振を極めた。

まともに綱を務めたのは1952年1月場所の13勝くらいで特に53年は1月場所から2場所途中休場の体たらくぶり。

ある日、観客から「引退して『花月』(奥さんの実家の料理店)で板前をしろ」とヤジが飛び、これは堪えてついに協会に横綱返上を申し入れた。

協会は受理をせず、以前横綱昇進話を辞退した師匠・出羽海から少し叱られた程度でとりあえず5月場所を全休して9月場所で復活を期すことになった。

高野山にこもって修業をした成果が出たのか、その9月場所で11勝4敗の成績を残して復調の気配を見せる。

54年は全場所皆勤して全場所2桁勝利の安定感を見せたが優勝には届かなかった。

復活優勝は55年1月場所、12勝3敗で決定戦にもつれたが、時津山を退けて4度目の優勝、さらに続く3月場所でも決定戦で大内山を破り連覇を決めた。

この後は右肘を痛めて、再び調子は下降するが、57年1月場所では全勝優勝し存在をアピールした。

59年1月場所限りで引退。千代の山の引退により、1900年1月場所以来60年間役力士を抱え続けていた出羽海部屋からついに役力士が消えた。

引退後は武蔵川(元幕内・出羽ノ花)と出羽海部屋後継争いが勃発し、一門から破門を受ける形で独立し、高砂一門に身を寄せる事になった。

騒動の末に独立した直後の場所で北の富士が幕内優勝した時の歓喜の涙は名シーンである。

北の富士は横綱に昇進し、千代の富士もスカウトするなど師匠としても活躍した。

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