40代横綱

東富士謹一


-初の江戸っ子横綱-
大相撲史上初の東京出身横綱。

一代を築くまではいかなかったが、怒涛の寄りと形容される寄りで頂点を究めた。本名は井上謹一。

生まれた時から6`を超える大型赤ちゃんであった。大人に混じり家業の鉄工所を手伝っていたところ評判になり「下谷に怪童あり」と言われるようになる。

1935年夏に13歳で富士ヶ根部屋に入門した。


-出ると負け-
東富士は弱かった。

「出ると負け」で自分より小さな力士にも勝てず、陰口をたたかれていた。

前相撲を通過するのに2年もかかる。あまりの弱さに兄弟子が「キン坊(東富士の通称)は見込みがないから家へ帰したほうがよい」と進言すると師匠は「バカ野郎、お前らはどこに目をつけているんだ。オレはキン坊だけが頼りなんだ」と一喝。

これに東富士は涙を流して発奮した。

1938年1月に序ノ口に出ると、「師匠のために」と快進撃が始まる。

序ノ口を1場所で通過し、序ニ段も2場所、三段目も2場所で突破し40年5月に幕下に到達する。


-双葉山に目をかけられ-
幕下に上がった頃から横綱・双葉山に目をかけられるようになる。

「キン坊来い!」の合図で東富士は双葉山の胸にぶつかっていった。横綱が三役力士と稽古をしている時も一時中断して稽古をつけてくれたこともあった。

そのかいあってか、42年1月に新十両。

43年5月には新入幕を果たす。

関脇に昇進して迎えた44年11月場所、初日から5連勝で迎えた東富士は6日目に双葉山と対戦。

立合いから素早くぶつかり、一気に寄っていって最後は上手出し投げで仕留めた。

取組後に挨拶に行ったところ、双葉山は「俺もこれで安心して引退できるよ」と語り双葉はこの一番が現役最後の黒星となった。


-ムラのある相撲で一時代は築けず-
結局、11月場所は9勝1敗で優勝同点の成績を残した。

1945年2月には空襲で母と弟を失う。45年6月場所は6勝1敗で2場所連続で準優勝となり、場所後に大関昇進を決めた。

大関昇進後は怪我に苦しむ時期もあったが、48年は調子を取り戻し5月場所は10勝1敗で初優勝、10月場所も優勝こそならなかったが、11勝1敗で増位山との決定戦に進出した。

これらが評価されて場所後に横綱昇進を決め、初の「江戸っ子横綱」が誕生した。11月に吉田司家より横綱免許を受けたが、司家の審査を受けて横綱に昇進したのは東富士が最後である。

土俵入りは「鼻息が桟敷まで聞こえる」と言われる程の迫力であったと伝わる。

49年1月場所も10勝2敗で2度目の優勝を決めた。東富士時代到来かとも言われたが、5月場所では大崩れで8勝7敗。続く9月場所でも精彩を欠き10勝5敗に終わる。

50年は1月場所で途中休場、復活を期した5月場所で14勝1敗と見事3度目の優勝を果たすが、9月は11勝4敗に終わる。

引退まで連覇も全勝もなく、波のある相撲は最後まで直らず並みの横綱の域を脱したとは言い切れなかった。

51年9月場所12日目は吉葉山と大相撲史に残る激闘を演じた。物言い取り直しの後に2度水が入り、また取り直しとなった一番は「戦後大相撲最高の一番」とも言われる。

東富士はこの一番、医師と警察署長から「急性肺炎で土俵を務めるのは命の保証ができない。万が一の時の非は東富士にある」と一筆とられから土俵に上がっていた。ちなみに土俵入りは休んだ。

54年9月場所限りで引退。


-一門の争いに巻き込まれ協会を去る-
年寄・錦戸を襲名し協会に残るはずであったが、錦戸は双見山の所有でありこれが立浪一門の怒りを買った。これは東富士が立浪一門に所有権があると知らなかったからと言われている。

東富士はもともと出羽一門との関係も悪く、一門の争いに巻き込まれていく。途中で双葉山が仲裁に入った事もあったが、それも及ばず54年12月に協会を去った。

付け加えると師匠・高砂(元前田山)とも不仲であった。しかしながら、嫌な奴だった、人望がなかったからというわけでは決してなく、江戸っ子らしく気風は良く、初代・若乃花も東富士を横綱の手本としていた。

引退後はプロレスラーとしても活躍した。

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