39代横綱

前田山英五郎


-相撲史に残る超革新者-
強さ以上に言動で歴史に名を残した横綱。本名は萩森金松。

村のガキ大将、負けず嫌いでケンカは日常茶飯事だった。

なぜ角界入りをしたかは未だに定かではないが、14歳で高砂部屋に入門した。高砂の巡業に触発されたという説もある。


-激しい突きで十両へ-
初土俵は1929年1月場所。5月場所に喜木山という名で序ノ口に出る。

当初は目立つ存在ではなかったのだが、30年5月に佐田岬と改名したのが良かったのかその場所は序二段で5勝1敗の大勝ち。出世のスピードも上がっていく。

取り口は性格同様激しいもので徹底した突っ張り攻撃は相手に恐怖を与えた。

33年5月には西幕下3枚目で7勝4敗、十両入りを確実にした。


-土俵際からの生還と再起不能を救った恩人に報いる改名-
33年の暮れに右腕を負傷。さらに傷口から感染し骨髄炎に罹った。担ぎ込まれた慶応病院で診察したのが前田和三郎氏。1年は土俵を休まない事を告げると佐田岬はひどく落胆した。すぐに1回目の手術が行われた。経過は良好だったが、相撲が取れないストレスが溜まっていたのか酒を口にして警官と大立ち回りを演じてしまった。

師匠・高砂は破門を宣告。

師匠のいない力士は土俵に上がれない。これにて廃業かと思われたが、高砂と親交のあった右翼の巨頭・頭山満が佐田岬の将来性を見抜いて仲介、佐田岬は土俵際から戻ってきた。

こうした経過をたどり、2度目の手術を受ける事になった。大手術は奇跡的に成功し、2カ月後に退院した。なんと前田氏は入院費用まで一切を負担してくれた

この恩に応えるべく、佐田岬は前田山と改名した。もちろん、この四股名は前田氏から取っている。


-躍進、前田山-
1935年1月場所で土俵に復帰。番付は三段目まで降下していた。

再起の場所を5勝1敗で飾ると、幕下で迎えた5月場所は10勝1敗として36年1月場所で十両に復帰する。

事実上初となる十両でも8勝3敗、10勝1敗の好成績で2場所で通過して37年1月場所で新入幕を果たした。

幕内でも勢いが止まらず38年1月場所には小結まで躍進した。ここでも11勝2敗の好成績を残すと場所後には関脇を飛ばして一気の大関昇進を果たした。24歳の新大関の誕生である。


-大関在位足掛け9年の末に横綱へ-
前田山は大関として常に安定した力を出していた。

1941年1月場所には大関・羽黒山、横綱・双葉山の立浪勢を張り手戦法で相次ぎ撃破する。

これには羽黒山から「あれは相撲ではない」と批判する事態に発展した。

42年には師匠・高砂の後を継ぎ二枚鑑札として高砂を襲名した。

44年11月場所では9勝1敗で初優勝を飾った。前場所も8勝2敗の星を残しており横綱に推挙されてもおかしくなかったが、戦火は激しくなる一方。横綱どころではない状況で話題にすらのぼらなかった。

戦後の47年6月場所で9勝1敗の優勝同点の成績を残して場所後に横綱昇進を果たした。大関昇進から9年。33歳のことだった。

一部では前田山の横綱昇進は功労的な意味合いが強かったと言われているが、前場所でも11勝2敗の成績であり、功労的と言われるほど功労的でもない。

とは言え大関在位9年は余りにも長過ぎた。

横綱になってからは思うような成績は残せずにいた。


-前代未聞の引退劇-
1949年10月、初日こそ白星だったが、それから5連敗して途中休場に追い込まれた。

休場中の身であったが、当時来日していたサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下トリプルAチームのシールズと巨人軍の試合を観戦していた。

これがカメラマンに見つかり、試合後にグラウンドに降りてシールズの監督と記念撮影。これが翌日の新聞の一面に「前田山、観戦す」と大きく掲載された。

部屋の力士達と草野球チームを作るほどの野球好きが仇となった。

しかもただの横綱ではなく二枚鑑札として師匠を兼ねる立場。

あってはならない不祥事に非難が殺到。

前田山は千秋楽の出場を希望したが、認められずこのまま引退となった。

横綱としては弱い横綱の上に晩節を汚したイメージが定着してしまっているが、年寄としては「国際化の先鞭をつけた親方」という一面を持つ。

51年に米国巡業を敢行したのを手始めに海外へのアピールを繰り返した。

64年には高見山をスカウトし、高見山は初の外国人関取、初の外国人幕内最高優勝者として歴史に名を刻んだ。

67年には出羽一門を破門された九重を高砂一門総帥として一門に受け入れる決断をした。

弟子は横綱・朝潮を筆頭に多くの幕内力士が誕生した。

高見山の初優勝を見ることなく71年8月に癌により他界した。

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