38代横綱

照國 萬藏
(TERUKUNI MANZO)


-桜色の音楽-
リズミカルな相撲ぶりは「桜色の音楽」で称された人気横綱。本名は菅(のち大野)萬藏。

幼少時代からまるまる太っていた上に母が元関脇・清瀬川の伊勢ヶ濱と遠縁であったこともあり、伊勢ヶ濱部屋に入門する。

伊勢ヶ濱の代理として迎えに行った播瀬川は一目で才能を見抜いて反対する母親を説得して夜行列車で連れて行った。

太ってはいたが上背不足で新弟子検査に不合格になるが、充分に稽古をしてよく食べて1935年1月に合格した。


-生死の境から復活-
前相撲は2場所かかり、1936年1月場所では序ノ口で3勝3敗と勝ち越せなかった。

その後は場所に出れば大勝ちを繰り返し、幕下まで全て1場所で通過し38年1月に新十両。三段目時代に大陸巡業から帰ってきたら40`太っていたというエピソードを持つ。

新十両の場所は6勝7敗と負け越して、西幕下筆頭に下がるが、ここでも5勝2敗で再十両。

再十両となった39年1月場所は11勝2敗で十両優勝。5月場所で年齢の若さでは当時2位となる20歳3ヶ月で新入幕を果たした。この1年の間に体重は30`増量していた。心臓病で激しい稽古を医師から止められていたという説もある。

新入幕のこの場所でも11勝4敗の成績を残したが、千秋楽の翌日に盲腸炎が悪化して緊急手術。一時は危篤状態に陥ったが、8日目に何とか意識を取り戻した。

翌40年1月場所は休場の勧めもあったが、土俵に立ち12勝3敗。関脇に昇進した5月場所から連続して11勝、12勝、13勝の安定感を見せて大関に昇進する。満22歳であった。


-食糧難を乗り越えて-
新大関で迎えた1942年1月場所でも12勝3敗で終えると、続く5月場所は双葉山を14日目に下手投げで下し、13勝2敗の優勝同点の成績をで場所後に横綱昇進。

当時としては最年少23歳4ヶ月での昇進であった。土俵入りは「動く錦絵」と称された。

優勝こそなかったが、43年も安定した力を見せていた。ところが、44年に入ると少し崩れ、終戦後には殺人的な食糧難で体重が60`もダウンして100`ほどになってしまった。

成績は芳しくなかったものの、なんとか横綱を務めていた。これは現役時代80`台の体重ながら関脇にまで昇進した播瀬川から入門当初指導を受けていた賜物かも知れない。


「優勝のない横綱」のまま終わるのかという声もあったが、少しずつ食糧事情にも改善の兆しが見え初め、150`まで戻して迎えた50年9月場所。

初日から快調に白星を積み、13勝2敗で取り終える。成績は関脇の吉葉山と同点。今までなら番付上位の照國の優勝であったが、優勝
決定戦が導入されていた為、決定戦へ。

決定戦で吉葉山を寄り切り、まさに悲願の初優勝を成し遂げた。横綱に昇進してから8年間たっていた。

プレッシャーから解放されたのか次の51年初場所は15戦全勝で2連覇を達成。

その後は糖尿病に苦しみ優勝には届かなかった。

ここで一点だけ申し上げておくと照國は決して弱い横綱ではない。優勝回数こそ2回だけだが、双葉山に対戦成績は3勝2敗で勝ち越している。双葉が晩年だったからという声もあるが、全盛期に準場所で当たった際は照國が双葉を圧倒している。また、15日皆勤すれば必ず10勝以上は挙げていた。羽黒山にも6勝8敗と健闘している。

53年1月場所中に引退。引退後は大関・清國を筆頭に多数の幕内力士を輩出し、理事も務めた。

歴代横綱一覧に戻る