37代横綱

安藝ノ海節男


-無敵横綱を破ったヒーロー-
双葉山の連勝記録を69でストップさせて相撲史に永遠に名を刻んだ名人肌の力士。本名は永田節男。

幼いころから体が大きく、少年時代は食料品商の家業を手伝っていた。毎日のように港で食料品を納入する力仕事に従事していた。

1931年に広島で開催された相撲大会を観戦していたところ、審判長として来ていた元横綱・常ノ花の藤島親方にスカウトされる。


-地道に番付を上げる-
1932年2月場所に初土俵を踏む。5月場所では永田の名で番付が序ノ口に載る。四股名はこの年のうちに安藝ノ海と名を改めている。

もともと、「一つ東京見物でも行ってみるか。嫌になったら、帰って店を継げばいいさ」と軽い気持ちで入門しただけあってあまり稽古熱心ではなかった。その為、序ノ口や序二段では若干苦戦をした。

それでも三段目の頃から稽古にも身が入り精進するようになった。怪力タイプではなく、抜群の相撲勘で取るタイプの力士だった。普段は大人しいが負けず嫌いで「相手はみんなウジ虫だと思って土俵に上った」と後に語るほど。

36年1月場所で新十両。38年1月に新入幕を果たした。非力であった為、大勝ちすることは少なかったが、地道に番付を上げていった。


-双葉を止めた一番-
新入幕の場所で8勝となかなかの成績を挙げると、一部から安藝ノ海待望論が沸き起こった。

当時は双葉山が連勝記録を伸ばしており、誰が止めるのかという点に関心が集まっていた。所属していた出羽海部屋は角界一の大部屋、部屋を挙げての双葉対策に力を入れていた。

出羽の智将・早大出身の笠置山(当時は早大出身の力士など異端児)は打倒双葉の秘密兵器として徹底的に鍛えこんだ。

必勝パターンは突っ張り、状態を起こして左を差すというもの。

38年5月に前頭10枚目で9勝4敗の好成績を残して双葉への挑戦権を得る。

運命の39年1月15日。作戦通りの形に持ち込んだ安藝ノ海は外掛けを仕掛ける、双葉は捨て身の投げを打つが体を預けるように双葉を左腰から倒した。

場内は興奮の坩堝と化して普段は数分で戻れる部屋への帰路は群衆が詰めかけ、数時間を掛けてようやく部屋に戻った。


-大金星を自信に横綱に-
結局、双葉を破った場所は6勝7敗に終わる。得た自信は大きく「双葉山に勝った自分がみっともない相撲は取れない」と稽古にもいっそう身が入った。

5月場所では10勝5敗で一気に関脇に昇進する。1940年5月場所で14勝1敗で初優勝を飾る。場所後には大関に昇進した。

42年1月場所、5月場所で2場所連続して13勝2敗の準優勝の成績を残して照國と共に横綱昇進を果たした。

横綱昇進後はマラリアに苦しみ、45年11月場所は4勝6敗と横綱でありながら皆勤負け越しを喫するなど思うような成績を残せなかった。

46年11月場所は全休して千秋楽に引退。引退後は年寄・不知火を襲名した。


-「ちゃんこ安芸」が原因で協会退職-
1949年1月師匠の藤島が7代目出羽海を襲名すると、不知火は藤島を襲名する。師匠の長女と結婚しており、この時点で8代目出羽海は約束されたようなものだった。

52年1月場所後には理事に就任。ところが、困窮する年寄を救済しようと花相撲を主催し利益を分配したことが協会幹部の不信を買った。

53年決定的な出来事が起こる。東京駅八重洲口に5階建てのビルを完成させ「ちゃんこ安芸」をオープンする。ここまでは良かったのだが、地下にキャバレーをオープンさせたのが出羽海の怒りを買った。

結果、出羽海後継者レースから脱落し54年には平年寄に降格させられる。

妻と離婚をした後、55年1月限りで相撲協会を退職。問題の「ちゃんこ安芸」も手放しアパート経営やブティック経営で悠々自適の生活を送った。

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