35代横綱

双葉山定次


-相撲道の化身-
不滅の69連勝、12回の優勝、5場所連続全勝優勝−。その強さはもちろん、相撲道の奥義を追求し、神がかり的な土俵態度と言動は土俵の品位を高めて後世に多大なる影響を及ぼした。本名は穐吉定次。

「古今の理想の横綱」と称されることもあり、後の横綱のお手本のような存在である。

諸説あるが、6歳の頃に友達の吹き矢が右眼に当たり失明したと伝えられる。これに関して双葉山は子どもの頃の事だから生まれつきみたいなもので両眼がある便利さを知らないので気にならなかったと語っている。

尋常小学校2年生の成績は3学期の国語以外全て「甲」(現在のよくできるに相当)と幼い頃は成績優秀。

11歳の時には家業の回船業を手伝っていたところ、イカリの巻き上げ機で右手小指先を失い、12歳の時に父が木炭売買の事業に失敗して多大なる借金を背負う。

進学を諦め、父の勧めで角界入りを志す。奉納相撲で畳屋の青年を破った事が話題になり、当時の県警本部長・双川喜一氏の紹介で立浪部屋に入門した。双葉山の四股名の由来はこの双川氏にある。


-誰とやってもちょっとだけ強い-
1927年3月に初土俵を踏む。目立った成績こそなかったが、稽古は熱心であった。

成績は4勝2敗や3勝3敗が多かったが、十両時代まで負け越しはなかった。これを元栃木山の春日野は「誰とやってもちょっとだけ強い」と評した。

31年5月に新十両。この場所は3勝8敗と大負けしたが、転機は32年1月に発生した「春秋園事件」。ここで協会に残留した双葉山は一気に西十両5枚目から西前頭4枚目に昇進する。双葉山自身は事件に対して「当時のわたしはよく判断できなかった。早く解決して相撲を取らせてもらいたかった。」と語っている。

この頃は突っ張りからの正攻法に徹していたが、押し込まれる場面も多かった。一方で土俵際で「うっちゃり」を決めて星を拾う事も多く、「うっちゃり双葉」の異名を持っていた。


-平幕力士がある日突然負けなくなる-
新入幕から9場所目の35年1月に新小結。この場所は4勝6敗で負け越す。東前頭筆頭から出直しとなった次の5月場所でも4勝7敗で2場所連続の負け越しを喫する。

番付を東前頭3枚目まで落として迎えた36年1月場所。6日目に横綱・玉錦に敗れる。7日目に平幕の瓊ノ浦に勝つとこの日からなぜか全く負けなくなる。この場所は9勝2敗で終える。

新関脇となった5月場所では11戦全勝で初優勝。9日目には横綱・玉錦との全勝対決、いわゆる後世で言う「玉座交代の一番」を制している。

新大関となった37年1月場所も全勝優勝。次の5月場所も1場所13番に増えたものの全勝優勝。大関在位2場所ながら場所後に横綱免許が授与された。

新横綱の38年1月場所も全勝優勝。5月場所でも全勝優勝。これで5場所連続全勝優勝。まさに無敵である。


-70連勝ならず-
1938年の北支(中国北部)巡業の際にアメーバ赤痢に罹る。これにより20`以上体重が減る。

休場の勧めもあったが、玉錦が急死し力士会会長にも就任していた事もあり出場した39年1月場所、初日から3連勝して連勝を69まで伸ばす。

4日目の相手は初対戦の新鋭・安藝ノ海。先の北支巡業で双葉山は新鋭に対して小手調べに意味で一度稽古相手に指名したが、安藝ノ海は腹痛を理由に辞退している。この時、対戦していれば連勝ストップはなかったと言われている。また、安藝ノ海自身もそれは認めている。

結果は安藝ノ海の外掛けが見事に決まり双葉山の連勝記録は69で止まった。

39年5場所から15日制がスタート。この場所でも双葉山は全勝優勝を飾る。この場所の双葉山の相撲こそが一番良かったと評する声は多い。なお15日制に移行した理由は双葉山の人気が凄まじかった為である。


-引退危機からの復活-
1940年1月場所は14勝1敗で優勝。ところが、5月場所では4敗を喫して12日目から途中休場に追い込まれる。ここで引退を示唆して世間を騒がせる。これは協会の説得で撤回される。

双葉山は復活を期し福岡県筑紫郡安徳村の上梶原という山に籠った。5週間ほど毎日精進料理を食べ、滝に打たれた。精進料理ばかりだったが、体力の衰えはなかったと語っている。

滝に打たれて相撲が強くなるのかという疑問視する声もあったが、後がない41年1月場所、双葉山は14勝1敗の成績で復活優勝を果たす。


-盤石の4連覇と引退-
1941年5月場所こそ優勝を逃したが、それでも13勝2敗で横綱の面目は保つ。

42年1月場所から43年5月場所まで4連覇。この頃になると「うっちゃり双葉」と揶揄されていた取り口は消え、右四つ上手投げの盤石な相撲を見せていた。

情勢が悪化していく中で国民を勇気づける双葉山はまさに国民的英雄であった。

44年1月場所は少し崩れて11勝4敗。44年5月場所は戦況の悪化で10日制で実施されたが、ここでは9勝1敗ながら優勝はならなかった。

44年11月場所6日目、かねてから目をかけていた東富士に敗れる。これで引退を決意したと言われている。

45年6月場所、初日に相模川を破る。これが最後の土俵となり、11月場所限りで引退した。

背景にはGHQによって46年より土俵が15尺から16尺に広げられることが決まったことがあるとされる。


-理事長として難局乗り切る-
現役中から双葉山道場を開設していた双葉山。年寄・時津風を襲名した。相撲への情熱で横綱・鏡里、大関・大内山、豊山らを育てた。

相撲協会では1946年11月からいきなり理事として活躍して、55年5月には出羽海理事長の自殺未遂事件の混乱の最中に理事長に就任。

残すべきは残しつつ、部屋別総当たり制度の実施や相撲診療所の開設など、新しい事もいくつか取り入れ、混乱していた協会を持ち前のカリスマ性でまとめて難局を乗り切った。

一方で新宗教にのめり込み、47年1月には璽光尊事件で逮捕される騒動も起こした事もあった。この事件に関して双葉山自身は「教育のない悲しさ」、「批判的態度の欠如」と振り返り反省している。

63年12月16日、56歳で亡くなった。協会葬として盛大に見送られ、政府からは従四位勲三等旭日小綬章が追贈された。

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