34代横綱

男女ノ川 登三


-阿久津川と出会い、入門を決意-
波乱万丈な人生を送った第34代横綱。本名は坂田供二郎。スケールの大きい奇人横綱である。

体が大きく、青年団のメンバーから角界入りを勧められていたが、父親が日露戦争で戦死し、兄も兵役中だったので、本人は乗り気ではなかった。

しかし、富士ヶ根部屋の幕内・阿久津川が男女ノ川の住む村の近くに来て、出会ったところ、触発されて、角界入りを決意。

阿久津川は大きな体に魅力を感じる一方で、足の欠陥を見抜き、スカウトにそこまで積極的ではなかったようだ。

内弟子という形で富士ヶ根部屋に入門するはずだったが、関東大震災で富士ヶ根部屋が焼失した為、阿久津川が移籍していた高砂部屋に入門した。


-朝潮事件と春秋園事件-
初土俵は1924年1月場所。東京は相撲どころではないので、名古屋開催となった。場所後に実家に戻り、3月の兄の除隊を待ってから巡業先の熊本に合流した。

負け越しなしで27年1月場所に新十両。28年1月場所に入幕を果たした。

29年5月場所から朝潮供次郎と改名。当時、男女ノ川は川口市の元幕内・阿久津川の佐渡ヶ嶽部屋から高砂部屋に稽古へ通っていた。高砂は部屋の伝統四股名である朝潮に勝手に改名してしまい、これに佐渡ヶ嶽が激怒。高砂部屋に詰めかけ、短刀を抜いた。

流血必至と思われたが、元幕内格・木村宗四郎の入間川取締が駆けつけ、仲裁。結局、改名は有効とされ、所属部屋は佐渡ヶ嶽、稽古は高砂ということで落ち着く。

武藏山との割は人気があり、30年1月場所千秋楽には18年ぶりに満員札止めが出た。ただし、両者の取組が結びではない。

32年1月に春秋園事件が勃発して協会を離脱。朝潮から男女ノ川に四股名を戻す。番付編成への不満や佐渡ヶ嶽、高砂両者の板挟み状態に不満が少なからずあった。養老金問題が決着をついて協会復帰後は元阿久津川の佐渡ヶ嶽部屋に移籍。

33年1月に協会に復帰するといきなり11戦全勝で優勝を決める。苦戦らしい苦戦は新鋭・沖ツ海戦のみ。協会に残留した玉錦、清水川らとの差は歴然だった。協会側は1日1番が基本だが、離脱組は同じ相手と1日10番やることもある。鍛えられ方が違うので離脱組優位は囁かれており当然の結果である。

関脇で迎えた34年1月場所は9勝2敗で2度目の優勝を飾り場所後に大関昇進を決めた。

大関を4場所務め、36年1月場所後に横綱免許を授与される。5勝6敗→9勝2敗→8勝3敗→9勝2敗とやや物足りない成績にも映るが、昇進。

特に36年1月場所6日目に双葉山は玉錦に敗れて以降69連勝を記録したのでタイミングとしてはギリギリだったいえよう。

全盛期は191p、146`の堂々たる体格で「動く仁王」の異名を取っていた。


-三鷹の三大奇人-
双葉山との相性が悪く、当初は5連勝したが、1936年1月場所で敗れてから10連敗を喫した。ただし、双葉山がどう思っていたかはさておき、本人は双葉山を自身が強くしたと思っている。

三鷹への引っ越しを契機に当時としては珍しい車のダットサンで場所入りするなど一風変わった人物としても知られている。よくは分からぬが、当時は5日間くらいで免許が取れたようで、両国まで車通勤の日々。

力士の運転こそ禁止されていなかったが、マイカーを持っていること自体が珍しいことで、高砂から指導が入った。

すると当時序二段だった千寿錦を三鷹の家に引き取り、運転手代わりにした。

好物はジャガイモで、1日4`近く食べていた。その上、1つでも盗むとバレたと付け人の東富士は証言している。

横綱としては38年5月には6勝7敗で負け越した事もある。

42年1月限りで引退。空き名跡はなかったが、高砂が奮闘し、横綱は一代年寄というルールが急遽できて、協会に残留。

トントン拍子で理事に昇進したのはよかったが、勤務態度悪く、理事は半強制的に降ろされた。

終戦直前に角界を去り、まずは中島飛行機会社の青年学校の教官になる。終戦は素直に喜び、周りからは白い目で見られたそうだが、元横綱に歯向かう者などいるはずもなかった。

終戦後に飛行機会社から土地を500坪も購入。計800坪の地主となり、しかも食糧不足とあいまって、成功した。

勢いに乗った坂田供二郎は戦後最初の衆院選に出馬。定数11に対して70位の大敗を喫す。現在の感覚だと元横綱なら当選しそうだが、当時の日本人はマジメに政治や選挙を考えていたので、通るはずがなかった。

戦後3回目の衆議院選挙に出馬するも落選。金銭的に困窮した。

その後は幾つもの肩書きを持ち、千代田生命の支社長候補など比較的順調だった時代もあったとはいえ、保険の外交員やサラリーマン、はたまた探偵など元横綱としては異例中の異例の人生を送った。妻子とも別々の生活を送った。

太宰治、五味康裕と並んで三鷹の三大奇人に数えられている。

病気で倒れてからは生活保護を受けていた時代もあった。見かねた協会がカンパをしたが、130万円を見込んでいたところ、50万円にも満たない額しかもらえず(しかも、そのうち10万円は元横綱・双葉山の時津風)、それもギャンブルで失う。三鷹市長選挙への出馬を企んでいたからだ。

晩年はかつてのファンが経営する武蔵村山の料亭・「村山砦」で働いていた。

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