33代横綱

武蔵山 武


-飛行機の異名を持った超スピード出世-
最終的に横綱にまで登り詰めた力士であれば、スピード出世は珍しくない。

武蔵川はあまりのスピードで当時はまだ夢の乗り物であった「飛行機」に例えられた。

本名は横山武。体が大きく、少年時代のニックネームはなんと「おとな」。父親が家族を捨て樺太に去った為、生活は困窮を極めた。

それでも草相撲では敵なしの強さを見せ、いつしか人は彼を「日吉の怪童」と呼んだ。

「親孝行が出来る」の口説き文句で満16歳で角界入り。183p、86`の見事な体格であった。

-抜群の勢い、人気-
1926年1月に初土俵を踏む。

5月に序ノ口に出ると、27年1月には序二段、10月には三段目、さらには28年1月には幕下に上がるスピード出世。この間に18連勝と16連勝をそれぞれ記録している。

29年1月、19歳で新十両。ここでも11戦全勝で優勝。3月場所でも9勝2敗の好成績で新入幕を決めた。この頃そのスピード出世ぶりから「飛行機」と呼ばれていた。

甘いマスクに強烈な右からの攻めもあり人気も急上昇し、プロマイドの売上は常にトップを争う存在であった。

新入幕でも9勝2敗、されに翌場所でも9勝2敗で優勝同点で30年5月には小結に上がった。


-右肘痛に泣く-
時は東西制時代。大ノ里、脇天龍といった上位の先輩が健在だった為、武蔵山は1年半も小結に留まった。

その中でも1930年10月は優勝同点、31年3月場所は10勝1敗。5月場所でも10勝1敗で初優勝を飾った。

ところが、31年10月場所で9日目の沖ッ海戦で右肘を痛める。この肘痛が結果的に相撲人生を大きく狂わせる。右を差して寄り、または投げという必勝パターンに陰りが見え始めた。

場所後に関脇を飛び越し、大関に昇進する慶事に沸いたが、32年1月に春秋園事件が勃発する。

武蔵山は出羽一門の兄弟子と共に協会を脱退。その後ボクシング界転向の動きを見せながら、最終的に協会に戻るという何とも中途半端な行動を取った。

双方の陣営からブーイングを受け、精神的にダメージを負ったと言われている。

復帰後も大関を務めたが、右肘痛の影響で本来の相撲は見られなかった。

苦しみながらも、34年5月場所では9勝2敗、翌35年1月場所でも8勝2敗1分け、5月場所も9勝2敗と盛り返す。

この3場所の成績を受けて5月場所後に横綱免許を授与された。

しかし、既に右肘は限界に達していた。横綱として皆勤したのは1場所のみ。その皆勤場所は38年5月で成績は7勝6敗と寂しすぎるものだった。

39年1月、5月と全休し引退。横綱としては4連勝が出来ず、最低記録に終わった。横綱昇進までは全ての場所で勝ち越したものの、昇進後は1度しか勝ち越しがなかった。

引退後は理事まで務めたが、終戦直後に角界を去り悠々自適の生活を送った。

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