32代横綱

玉錦三右衛門


-ボロ錦と呼ばれ、猛稽古で横綱に-
特段、素質に恵まれていたわけではなかったが、夜中のうちから起きて一人稽古を始める熱心さで横綱にまで上り詰めた。本名は西ノ内弥寿喜。

1915年に太刀山一行の巡業があり、これを見て力士志願を奉公先の主人に打ち明ける。

運良く主人も相撲好きで16年2月に二所ノ関部屋に入門した。12歳だった。


-気性の荒さが災いして昇進面で不遇に合う-
当時の体重制限である17貫(64`)に達せず、なかなか初土俵が踏めなかった。初土俵を踏める日を見据えて猛稽古に励んでいた。

同時にこの期間にチャンコ番をやらされ、それが苦痛だったとも語っている。本場所の土俵に上がれないところに先輩のチャンコ作りを12、3歳で経験させられたらそれは苦痛だろう。

1919年1月にようやく念願の初土俵を踏んだ。

5月に序ノ口に出るが、この頃から気性が激しく、負けん気も強くケンカばかりしていた。

「ケンカ玉」という異名を持ち彼の強情ぶり、わがままぶりは取的時代から角界で有名でだった。

23年5月に幕下に昇進すると、徐々に猛稽古が結果となって現れてきて、25年1月に新十両、26年1月には22歳で入幕となった。

幕内力士になっても、性格は相変わらずで「ケンカ五人衆」の一人に数えられていた。

取り口も極めて攻撃的な相撲であった。

当時の二所ノ関部屋は弱小部屋で稽古相手がいなかった為、出羽海部屋に預けられて、横綱・栃木山や常ノ花にも臆することなく、何度でも横綱が呆れてもぶつかっていった。

1928年1月に小結に昇進する。5月場所では関脇に上がり9勝2敗。大関候補に躍り出ると、29年1月に10勝1敗で幕内最高優勝。3月場所は9勝2敗、5月場所でも9勝2敗と大関どころか横綱に昇進してもおかしくない成績を残すが、大関昇進は叶わなかった。

粗暴な性格が原因と語られるが、それだけではなく当時としてはもう満杯という感覚であった4大関であったこと、また当時は1月と3月、5月と10月の成績が合算され2場所で1回の成績と見なされていたことや、二所ノ関部屋が小部屋であり部屋同士の力関係など様々な要素が重なった為である。

30年3月場所で大関・能代潟の陥落で反対陣営に回りようやく大関に昇進する。

土俵はますます充実して、30年10月、31年1月、3月と3連覇を遂げる。

ここでも横綱不在ながら横綱昇進はならなかった。あくまでも当時は1月と3月、5月と10月がセットであり4連覇したとしても2連覇程度の扱いであった。また、土俵外でのトラブルも多々あり協会首脳の評判は相変わらず今ひとつ。近年でいう朝青龍に近いが、気にいらない力士を暴力団に襲撃させるなど、現在の感覚なら除名必至のこともやっている。

なお、あまりの冷遇ぶりに怒って出羽海を日本刀を持って追い回したと伝わるが、これは誇張されている可能性が高い。


-春秋園事件を経て横綱へ-
転機は1932年1月の「春秋園事件」。ここで協会に残留し、土俵を守ったことが高く評価される。

10月場所で7勝4敗と今ひとつの成績ながら場所後、3連覇しても手に入らなかった横綱免許がいとも簡単に授与された。

横綱昇進後に二所ノ関の二枚鑑札となる。

親方も兼ね、自覚が出てきたのか精神面も充実する。弟子もどんどん増えていった。

また、土俵入りは「動く錦絵」とまで評され絶品であった。

横綱としても35年1月から3連覇を果たす。

36年5月場所9日目に大相撲史に残る双葉山と「玉座交代の一番」で大熱戦を演じる。この後も打倒双葉に執念を燃やすがそれは叶わなかった。

38年11月九州巡業中に盲腸炎を発病。大阪に戻り手術を受けたが手遅れで12月4日に36歳で亡くなった。

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