-史上初優勝回数を2桁に乗せる-
新大関で迎えた1920年5月場所は全休した。名誉を挽回すべく強い気持ちで臨んだ21年1月場所は優勝こそ逃したが9勝1敗で意地を見せ、5月場所では全勝優勝を果たす。

現代の感覚でなら横綱か…と言いたいところだが、出羽ノ海陣営は大錦、栃木山の両横綱が健在で上がることが出来なかった。そればかりか相手陣営の源氏山に先に昇進を許す悲運も味わった。

23年5月、9勝1敗1預りで2度目の優勝を遂げると、24年1月場所も8勝2敗の成績を残す。そしてようやく場所後の3月に横綱免許を授与された。27歳であった。

横綱昇進後は26年1月場所でこそ全勝優勝するものの、病気や怪我の影響で全体としては低調であった。

特に東西合併後の初の本場所である27年1月場所では不調で旧大阪方の大錦に優勝をさらわれる失態を犯し、旧東京方は面目丸潰れとなった。

これに奮起して、27年3月、5月、10月はいずれも10勝1敗で3連覇を果たす。優勝回数も2桁の10回を数えたが、当時は大阪開催での優勝は東京での優勝とは別に数えられており、特に話題にはならなかった。

無敵横綱ではなかったが、コンスタントに最高成績を残し続けた。

30年10月限りで現役を引退、年寄・藤島を襲名した。


-史上初の力士出身理事長として-
役員として関取の3分2が離脱した「春秋園事件」の対処にあたり、東西制を廃止し、系統別総当たり制を実施するなど最大の危機を乗り越えた。

そればかりか双葉山の出現もあって、久々に相撲に黄金期が到来した。

44年春場所後には力士出身者としては初の理事長に就任し戦中から戦後にかけての難局を乗り切った。蔵前国技館建設も大きな功績の一つである。

49年1月には出羽海を継承している。

高い手腕が評価されていたが、57年3月に財団法人としての在り方が国会の場で問われると、5月4日には自殺未遂事件を起こして相談役に退いた。

60年11月に64歳で亡くなる。協会は生前の大きな功績に報い盛大な協会葬で送り、日本政府からも勲三等が追贈された。

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