30代横綱

西ノ海嘉治郎(3代)


-同名3人目の横綱-
井筒部屋が輩出した3代目の西ノ海。本名は松山伊勢助。

17歳の秋に近くの町に後の2代目西ノ海一行が巡業で訪れる。これをきっかけに1909年5月に井筒部屋に入門する。四股名は源氏山であった。

10年1月に初土俵を踏む。同期に後の横綱・大錦、常ノ花がいた為、当たり場所であった。


-20連勝でスピード出世-
源氏山は出世が早く、1912年1月に序二段で全勝すると快進撃が始まった。5月場所も13年1月場所と負け知らずで6月場所途中まで20連勝を記録。

この頃には有望力士として周囲の注目を集めた。

14年1月に新十両、15年1月には入幕を果たした。

若い時の源氏山は大食漢で地方巡業先では「宿屋泣かせ」の異名を持ち恐れられていた。


-新入幕でいきなり優勝同点-
新入幕の場所は初日こそ緊張したのか敗れたものの、翌日から連戦連勝を続け9勝1敗で優勝同点の成績を挙げた。当時は同点の場合は番付上位者が優勝と扱われた為、優勝こそならなかったが、その優勝者も師匠の西ノ海(2代)であり、場所後に横綱昇進をした師匠に花を添える形となった。

取り口はモロ差しを得意として、足腰も強く掬い投げもあった。

その後はやや低迷した時期もあり、出世のスピードは落ちていった。

1918年5月には関脇まで番付を上げるが、その後は平幕暮らし。

三役に定着したのは20年からである。


-出羽一門との戦い-
1921年5月、関脇として8勝2敗の好成績を挙げて大関に昇進。大関に昇進したことで出羽ノ海陣営と逆の陣営に回ることになる。

当時は東西制の時代であり、個人優勝よりは東西で合計勝ち星数を争うことに重きが置かれていた。東に所属していれば西の力士としか対戦しないシステムである。

つまり新大関・源氏山は今まで仲間であった出羽一門と割が組まれるようになった。

源氏山は出羽一門相手によく健闘し、23年1月に大横綱・栃木山との引分を含む8勝1敗1分けで源氏山は場所後の2月、横綱に昇進した。

大関在位3場所で通算15勝4敗1分け10休と時期早尚との声も漏れたが、出羽一門相手によくやっているということで協会の強い推薦で決まった。

優勝経験なしの横綱昇進はこの時点では西ノ海が初であり、現在に至っても照國と双羽黒を加えた3例のみである。


-怪我に苦しみながら初優勝-
横綱昇進後西ノ海と改名し3代目となった。

横綱としては怪我に苦しみ満足な成績を残せなかった。在位15場所で全休6場所、途中休場6場所と出場自体が稀な横綱である。

それでも25年5月場所は9勝2敗で悲願の唯一の優勝を勝ち取った。

派手さはなく栃木山、常ノ花に次ぐ三番手というイメージが強く、晩年は心臓病も患い弱い横綱と揶揄されることもあった。

仕切りも長く、彼が仕切っている間に観客は皆安心してトイレに行けたとも伝わる。

ところが、ラジオ中継が始まり1928年1月場所から仕切り制限時間が設けられた。時間は10分。現在の感覚で言えば長いが、西ノ海はこれに対応する事が出来ず、3分半もオーバーする失態を演じている。

32年10月限りで引退した。37歳であった。

引退後は浅香山として後進の指導に当たったが、志半ばで42歳にして亡くなった。

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