29代横綱

宮城山福松


-大阪相撲最後の横綱-
大阪相撲最後の横綱であり、東西合併直後の場所でも優勝した大阪相撲の誇り。本名は佐藤福松。

1909年に常陸山一行が一関に巡業に来た際に声をかけられ、翌10年に出羽ノ海部屋に入門する。

12年5月には三段目まで昇進する。


-鉄拳制裁を喰らい脱走、大阪へ移籍-
岩手川の四股名で三段目に昇進して気分を良くしていた岩手川。当時は三段目に昇進すると雑用が免除になり大銀杏も結えるルールだった為に早速、大銀杏を結ってもらった。

ただ、これは古参力士と呼ばれるいわゆるベテランではないと遠慮するのが習わしだった。嬉しさのあまり結ってもらった岩手川は先輩で当時幕下上位だった九州山に「生意気」と鉄拳を喰らう。

とりあえずこの場所は相撲を取ったが、病気で帰郷を理由に脱走して大阪相撲は高田川部屋に移籍した。

高田川部屋は彼のように何らかの事情で大阪に移籍してきた力士が多く在籍しており、脱走者の受け皿的な存在だった。


-異例の早さで大関昇進-
宮城山の四股名で出直しとなり、幕下格でデビューした。東京で鍛えた実力はさすがで1915年1月十両入り。16年6月には入幕する。

この頃には東西合併興行でも活躍し、旧師の元常陸山の出羽ノ海からも激励を受ける。

新入幕の場所から2場所続けて8勝1敗1預りの好成績を残して早くも17年6月には大関昇進となった。これは大阪相撲最速記録であり、東京相撲でも大錦卯一郎しか記録していない。


-因縁の九州山と対戦-
1921年3月、東西合併興行で因縁の相手・九州山と顔を合わせる。東京で大関まで務めた九州山との一戦はがっぷり四つからの寄りで宮城山に軍配が上がった。

支度部屋に帰る直前、宮城山の前に九州山が現れ、九州山は若き日の無礼を謝罪する。これに宮城山も九州山の真意を受け、互いに和解の握手をした。

この一番は興行の初日であったが、これで気を良くしたのか宮城山は東京の横綱・大錦や大関時代の常ノ花を破り大阪方の意地を見せた。

-合併後最初の本場所で優勝-
1922年1月に10戦全勝で優勝すると、場所後に横綱に昇進する。

その後怪我などに悩まされた時期もあったが、25年1月に台湾で行われた大阪相撲最後の本場所で優勝を果たす。

そして東京相撲と合併するにあたり行われた番付編成の為の連盟相撲でも不本意な成績で終わるが、大阪方の大関が前頭9枚目(荒熊)や前頭10枚目(錦城山)に格下げされる中、宮城山は格下げを受けず、横綱として東西合併を迎えた。

1927年1月、東西合併後初の本場所で大方の予想を裏切り快進撃を続け、横綱・常ノ花にこそ敗れたものの10勝1敗で見事優勝を果たした。多くの力士が格下げされた旧大阪方は雪辱を果たした。これぞ横綱である。

晩年は金星4日連続で供給する不名誉な記録も作ってしまった。

31年3月場所限りで引退。引退後は勝負検査役も務めた。

大阪相撲の対面を守った横綱である。

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