28代横綱

大錦大五郎


-実力よりも品格を評価された横綱-
史上最弱の横綱と揶揄される事もある大錦。本名は鳥井吉三郎。

大錦と言えば、26代横綱・大錦卯一郎がいるが、26代の方は東京相撲の力士でこのページで紹介する28代は大阪相撲の力士である。別組織の人間だ。

横綱に昇進したのは東京が早いが、力士としては大阪の大錦が先輩で、東京方の師匠が大阪にも大錦がいることを知っていて四股名を付けたから人が悪い。代数は後でもこちらが先輩である。

地域の子供相撲大会で17人を負かし「稲本の金太郎」と呼ばれていて、京都相撲に入門する。


-大阪相撲へ移籍-
この時代は東京相撲より大阪相撲の方がレベルは低かったが、京都はもっと低かった。

本場所の開催も不定期な状態だったが、かなり地力を付けていたようで将来は期待されていた。本業の土建業が忙しくなった師匠に勧められ大阪相撲は陣幕(元幕内・懸車)の下に弟子入りした。


-クレームにも負けず入幕-
1903年1月、京都での実績が認められ三段目格からデビューした。頼みの師匠である陣幕親方が亡くなり、一時京都に戻った時期もあったが、朝日山部屋へ移籍して大阪に復帰。番付を上げていった。

十両10枚目で迎えた05年6月に無敗の好成績を残すと、06年2月に入幕となった。

ところが、これには力士の間からクレームがついた。十両10枚目からの昇進は不当であるというもので貧乏神(十両筆頭)で取らせろというのがその主張であった。

貧乏神とは十両筆頭のことで待遇は十両力士ながら筆頭である為に格上の幕内力士と対戦する機会の多い損な役回りのことである。

この主張が認められ急遽、大錦は十両筆頭で取るハメになった。

ダメを押すように初日の割はなんと小結・雪山と組まれる。しかし、明らかに格上の雪山を下手投げで破り、意地を見せた。この一番は大錦の中でも最高の一番と言われる。

勢いに乗った大錦は5月場所で堂々の入幕を決めた。


-常陸山の誘いを断り大阪で横綱に-
順調に番付を上げて1908年1月に関脇、10年6月には大関に昇進する。派手とは言えないものの、差し手は左右を選ばず、堅実な相撲が売りであった。

既にこの頃、常陸山から東京相撲への移籍話を持ち掛けられていた。実際に大錦が大関に昇進出来たのも、兄弟子である大関・放駒が東京へ移籍をした為である。

角聖とまで呼ばれる人物の誘いであったが、師匠想いの大錦はこれを固辞して大阪で相撲道に邁進した。

大阪ではコンスタントに好成績を残して実に6度、幕内最優秀成績を修めている。

一方で東京相撲との合併興行では東京方の強敵には歯が立たない状態。強さという点では歴代でも屈指の低評価となっている。

それでも品格や温厚な人格を高く評価され、18年7月に吉田司家より横綱免許を授与された…と公式見解ではなっている。

実際には大錦のファンに佐多という人物がいた。佐多の弟は連隊長でその部下に吉田長助大尉がいた。この吉田長助は23代吉田追風の長男である。連隊長の頼みを受けた長助が追風にお願いしOKしたというのが真相のようだ。

22年1月場所限りで引退。一代頭取・大錦となるも、23年8月に退職して悠々自適の生活を送った。

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