26代横綱

大錦卯一郎


-近代相撲のパイオニア-
特別に力が強いわけではない。足腰が抜群に良いわけではない。しかし、綿密に相手を研究し、角界の最高位を極めた。

相撲に科学的な要素を取り入れた近代相撲のパイオニアである。

彼は大阪の名門・天王寺中学(現・天王寺高校)で学んだ。同期に小説家の宇野浩司がいる。宇野の小説『出世五人男』の伊能猪之吉は大錦がモデルである。

陸軍学校に志願した事もあったが、体格が災いして不合格になる。

当時、旧制中学卒業の力士は異例中の異例でインテリ力士と見られていた。

入門志願の手紙を常陸山にローマ字で書き、その返信がローマ字で書かれていたことに感動して入門したとされているが、これは嘘ではないかとも言われている。


-理論派として新風を巻き起こした大錦-
常陸山によって大錦という四股名をもらう。本人は別の四股名を希望したともされる。そもそも、同時期に別団体とは言え大阪相撲に大錦という力士がおり、大阪の大錦にとっては気持ちの良いものではないし、東京の大錦にとっても気まずい四股名である。

彼が稽古場で格下力士相手に押し込まれる場面は珍しくなかった。彼はフィジカルのハンデを誰もやらなかった稽古でカバーした。

例えば、通常の稽古は午前中に行うので電灯は付けらていない。しかし、それでは電灯が灯る本場所とは相手の筋肉の動きや目の色が異なるので、稽古場も本場所同様に電灯を灯した。その電灯の光線も本場所同様のものにする徹底ぶり。

また、当時は東西制であり、次の場所で自分はどちらから土俵に上がるのかが場所終了時には判明していた。そこで稽古場でも自分が土俵に上がる方から上がり、常に行司の位置を頭に入れて稽古をした。

彼の研究対象は行司の動きにまで及んだ。

廻しも極力本番と同じものを使用し、本番の感覚で稽古を積んだ。


-理論に裏打ちされた超スピード昇進-
研究の成果もあり出世は極めて順調であった。

初土俵以来1度だけ負け越しただけで入幕。

1915年1月、新入幕の場所も8勝1敗1休と驚異的な成績を残した。これが評価され一気に小結に昇進。ここでも9勝1敗と強さを見せて入幕3場所目で早くも大関となった。

1917年1月場所、千秋楽で太刀山との全勝対決を制して場所後の3月には横綱に昇進する。

太刀山を破った一番は国技館が崩れんばかりの熱狂に包まれた。

入幕から5場所目での横綱昇進は不滅の記録である。


-余りにも劇的な引退-
1923年1月、養老金の倍増などを求めた力士によるストライキ、いわゆる三河島事件が発生する。

横綱、大関、立行司が双方の仲裁役として調停に乗り出したが、不発に終わる。その後、警視総監が仲裁に入りあっさり事件は解決する。

1月18日深夜、警視庁で行われた手打ち式後に催された日比谷・平野屋での和解の祝宴。この最中に、大錦は抜け出して自ら髷を落としてた。会場に再び現れた時、パーティーの会場は凍りついたとされる。

角界の頂点に立つ者として解決出来なかった責任をとったと説明した。

まだ、力は充分であり、あと5年は取れたと言われている。勝率は.881は歴代8位であり、共に一時代を築き大正の大横綱と呼ばれた栃木山、同じく大正の大横綱である太刀山をも上回っている。勝率が.880を超えたのはこの大錦が最後である。

協会にも残らず、このまま角界を去ったが、相撲評論家として外部から相撲に対しての関わりを持ち続けた。

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