23代横綱

大木戸森右衛門


-大阪相撲2人目の横綱-
若島に次ぐ大阪相撲2人目の横綱。大木戸の横綱昇進を巡っては東西相撲界断交にまで発展した騒動になった。本名は内田光蔵。

怪力港湾労働者として働きながら草相撲を取り、力量は近隣まで伝わっていた。

日清戦争に参加し、そこで知り合った大阪相撲力士の紹介で大阪相撲入りする。


-若島を破り大阪第一人者に-
大城戸の四股名で1896年9月に初土俵。98年10月に三段目に昇進して、大木戸に改名。

1903年1月に入幕を果たす。取り口は突きが中心であった。

小結で迎えた04年1月場所で大阪最強力士・若島を破り、最優秀成績を挙げた。

5月場所でも関脇として若島を撃破する。05年1月に大関昇進。大阪相撲は「若島・大木戸時代」を迎え、人気を博した。

東西合併興行を通して常陸山に心酔して東京相撲移籍の希望を持っていたが、先輩の若島が再起不能となり大阪相撲首脳は第一人者の彼の東京行きを認めなかった。


-横綱昇進と東西断交騒動-
1907年6月から3場所連続全勝優勝。若島不在の大阪相撲では無敵であった。これを見て大阪相撲首脳は大木戸の横綱昇進を目指した。

吉田司家は大木戸の実力には懐疑的で昇進に消極的であった。

実力を証明すべく参加した08年11月に東西合併興行でも不調で横綱昇進の決定打が出ない。

そうこうしているうちに大阪相撲と吉田司家との書信のやりとりがヒートアップして感情的なものに。

10年1月、大阪相撲は我慢しきれずに独自に横綱昇進を決めた。これに吉田司家側が激怒し大阪相撲に破門を宣告、東京相撲も同調して東西相撲はここに断絶状態となった。


-東西和解し公認される-
1912年、仲裁者の苦労が実り東西関係は修復する。吉田司家も破門を解き、12月には吉田司家から大木戸に横綱免許が授与された。36歳であった。

既にピークは越えており、和解の大手打ち式の後に行われた東西合併興行でも大木戸は不振。

13年4月、巡業中に広島県呉市にして脳溢血で倒れ、引退となった。自身の横綱昇進問題が原因の騒動による心労があったのかも知れない。

引退後は居酒屋を経営していたと伝えられるが、身寄りもいなかった為に墓所は今ひとつ判明していない。

歴代横綱一覧に戻る