22代横綱

太刀山 峰右衛門
(TACHIYAMA MINEEMON)


-横綱在位7年でたったの3敗-
四十五日と呼ばれた突っ張りを武器に明治末期から君臨した大横綱。本名は老本弥次郎。

四十五日とは一月半、つまり一突き半で相手は土俵の外を意味する。いかに突きが強烈だったかを示している。平成の64代横綱・曙のようなタイプを思い起こすと近いのかもしれない。

横綱に7年在位しながら3敗しかしていない。

生家は茶の栽培を行っていて、幼い日の太刀山がキリモミする茶は評判が良く、品評会で1等を獲得したこともあった。その茶葉は針のように鋭かったという。



-板垣退助ら大物政治家の力で角界入り-
入門前の太刀山は相撲が嫌いだった。

1898年に徴兵検査の際に184cmの長身が話題になる。これが友綱親方(元幕内・海山)の耳に入り熱心にスカウトするが、断固拒否される。

諦め切れない友綱は後援者の板垣退助に斡旋を依頼、板垣が内務大臣・西郷従道を通じて富山県知事に説得させ、ついに99年に友綱部屋に入門することになる。

故郷の名峰・立山から太刀山という四股名をもらった。考案者は板垣退助。

1900年5月、幕下付け出しで初土俵。

03年1月に十両昇進、翌04年1月には入幕する。


-東西制の壁-
太刀山は入幕後なかなか番付が上がらなかった。太刀山自身の病気もあったが、当時の東西制によるものだ。

太刀山の成績がいくら良くても、上位の先輩が元気だとなかなか昇進できない。大砲、梅ヶ谷、荒岩、國見山という諸先輩が健在。実力充分ながら関脇止まりであった。

1904年5月には幕内最高成績を残して、05年5月に関脇昇進する。ここから4年間、関脇に甘んじた。

ようやく大砲、荒岩の引退で09年6月に大関昇進。

新大関の場所は国技館オープンの場所であった。この場所で角聖・常陸山を破り、以後は独走状態に入る。

全盛期の太刀山とまともに相撲が取れたのは常陸山、駒ヶ嶽、西ノ海、朝潮の4名だけだったと伝えられる。

-幻の100連勝-
大関2場所目から全く負けなくなる。

連勝途中の1911年2月場所後に横綱免許を授与された。

12年1月場所の8日目に大関・西ノ海に敗れるまで43連勝。なお、敗れたこの一番は八百長であったと太刀山は語っている。

太刀山は次の日からまた勝ち続けて16年5月場所8日目に当時小結で後の大横綱である栃木山に敗れるまで56連勝。

八百長とされる西ノ海戦に勝っていれば、100連勝していた計算になる。

7年間在位した横綱時代の黒星は3つのみ。西ノ海栃木山大錦(卯)の3名によるもの。純粋な強さだけなら太刀山こそ史上最強の横綱という人もいる。

1917年1月場所千秋楽の大錦との楽日相星決戦に敗れたのが最後の一番になった。太刀山が敗れると観客が暴走し国技館の観客が最も熱狂した日ともいわれている。

引退後は早々に協会を去り、常陸山や双葉山に比べると評価の面で損をしている。

圧倒的な破壊力の突き、四つに組んでも呼び戻し。難攻不落の無敵横綱は平幕力士に一度も負けなかった。「谷風以来の大横綱」、「雷電の再来」と称されたが、オーバーではない。筆者は明治以降最強の力士はこの太刀山峰右衛門だと思う。

当時の生物図鑑には、まだ身近でなかったゴリラを解説する際に「ゴリラは太刀山のように強力な動物」と表現。

18年1月、40歳で引退をした。

人気の方はいまひとつだったようで、原因は強すぎたことがしばしば挙げられる。太刀山以前の明治の横綱は立合いで受けて立つを本当に実践していたが、太刀山は奇襲的に立つこともあったからではないかという説もある。

協会を去った後は悠々自適の生活を送った。


歴代横綱一覧に戻る