21代横綱

若島 権四郎
(WAKASHIMA GONSHIRO)


-大阪相撲最強の男-
大阪相撲で初の公認横綱となったのがこの若島。本名は高橋権四郎。

数え7歳の段階で将来を見込まれて大関・楯山の養子となる。

満15歳の時に松若という名前で1891年5月、東京相撲の序ノ口に名前が載る。


-大阪に脱走-
師匠の死や巡業先で濃尾大震災に巻き込まれ、兄弟子を亡くすなど逆境を乗り越えて番付を上げていく。

1896年6月には19歳の若さで十両入り。十両は1場所で通過し97年1月には新入幕となる。この際、濃尾大震災で自身を庇って亡くなった兄弟子・楯甲の四股名を引き継いだ。

幕内では苦戦を強いられ、在位5場所で13勝26敗4分け1預かりという成績。かつての師匠の名である若島を継いで再起を図った時期もあったが、天然痘にかかり入院を余儀なくされる。

心身ともにダメージを受けた若島は98年2月の九州巡業中に脱走して大阪相撲入りする。


-大阪相撲初の公認横綱-
脱走から2ヶ月程した1898年4月に大阪相撲に十両格でデビューする。大阪相撲は東京相撲とは別組織であり、レベルは東京にかなり劣るというのが一般的な見解であった。

若島は生まれ変わったように猛稽古を重ね、1901年5月には大関昇進を果たした。

東京相撲に押されっ放しだった大阪相撲は人気面でも復活。大阪相撲は若島を公認横綱にしようと画策した。

吉田司家は強さと人格面を高く評価し故実門人に加えたが、横綱免許に関しては渋った。「準横綱」という妥協案も出たが、結局は02年の時点では地域限定であれば名乗るのも黙認するというようなスタンス止まりであった。

03年1月には大阪相撲新となる連勝記録を35にまで伸ばす。

03年6月の東京相撲との合併興行では2代目梅ヶ谷を破り、常陸山と引分、太刀山とも預かりの勝負を演じるなど東京相撲の一線級力士と互角以上の力を見せた。

これに続く合併興行でも大砲や2代目梅ヶ谷の両横綱と互角に渡り合った。

合併興行での相撲が評価され、05年4月に東京相撲の後押しもあり21代横綱に昇進した。大阪初の公認横綱の誕生であった。


-不運な引退-
引退は突然やってきた。

05年11月、当時ブームだった自転車に乗っていた際に事故に遭い頭部を強打した。

結局、これが原因で引退。

31歳の若さであった。

引退後は角界を去り、社会奉仕活動や一流の役者を集めて劇団を組織して全国を回った。当時の鳥取県米子町の町議会議員としても活躍した。

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