20代横綱

梅ヶ谷 藤太郎(2代目)
(UMEGATANI TOTARO)


-「梅・常陸時代」築いた功労者-
大相撲黄金期である「梅・常陸時代」を築き、相撲を国技のレベルまで押し上げた功労者。

生家は「富山の薬売り」で知られる売薬業を営んでいた。本名は押田音次郎(のちに小江音松)。上背はそれほどではなかったが、肥満体は「水橋の怪童」の名で近隣の村々でも有名であった。雷部屋と高砂部屋が合同で巡業に訪れた際に、目に止まり雷親方(元横綱・梅ヶ谷)が入門を願った。

当初は両親の許可が下りなかったが、雷親方の養子として迎えるということで決着。当時、既に雷親方は協会の取締であった。


-鬼ヶ谷とのマンツーマン特訓-
12歳で入門。まだ、体が出来ていなかったこともあり本格的な稽古は行わなかった。代わりに鬼ヶ谷を専任コーチ役として徹底したマンツーマン英才教育を行った。

1892年6月、梅ノ谷の四股名で序ノ口につく。まだ、14歳と若かったのでしばらくは足踏みが続いたが、94年1月序二段、5月に三段目、そして96年1月には幕下と出世のスピードを上げていった。

97年1月に新十両、十両は2場所で通過し、98年1月には19歳で入幕した。

彼は巨漢でありながら、横の動きにも強く、相撲巧者と見られていた。


-小錦キラー-
新入幕の場所でいきなり横綱・小錦を撃破。小錦は梅ノ谷を大の苦手としており、生涯成績で4戦4敗であった。

98年5月場所では7勝1敗1分けで幕内最高成績を挙げた。1900年5月、梅ノ谷は大関に昇進する。

大関在位4場所目の02年1月、雷親方の現役時代の名である梅ヶ谷藤太郎の名乗りを許され、2代目梅ヶ谷藤太郎として活躍していく。

-ライバル・常陸山との激闘-
常陸山とは三段目時代に一度、梅ノ谷が幕内で常陸山が十両時代にも一度対戦している。いずれも常陸山が勝っている。

1901年5月、02年1月には梅ヶ谷が連勝した。両者の対戦は相撲ファンのみならず、大衆をも熱狂させた点で非常に意味のあるものであった。

03年5月、明治相撲史上最高の一番といわれる東西大関全勝対決では敗れたものの、場所後に横綱に推挙された。

当初、協会は常陸山のみを横綱昇進させるつもりだったが、常陸山の方が梅ヶ谷との同時横綱を希望したという逸話が残されている。吉田司家も了解し、6月に同時に免許を授与された。

なお24歳6ヶ月での横綱免許は最年少横綱(当時)であった。

その後、12年以上にわたって角界最高位を守り続ける。養父の雷親方の隠居により、15年6月に引退。

引退後は取締にも就任し、大正時代の不況へ立ち向かった。雷部屋の方は有望力士が育たず、彼の代で幕を閉じた。

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