-相撲史上最大の黄金期の主役-
脱走中も相撲道に精進していたようで、別人のような強さと一緒に常陸山は東京に帰ってきた。

1898年5月に幕下格として復帰すると、7勝1敗で幕下筆頭まで番付を上げる。90年1月場所も8勝1分け1休で新十両。5月場所でも9勝1分け、新入幕で迎えた91年1月場所でも8勝1敗で幕内最高成績を残した。

幕内でも安定した力を発揮し、92年5月に関脇、93年1月場所後には大関昇進となった。

取り口は相手の声で立ち、充分に取らせた上で勝つという堂々たる相撲ぶり。横綱だから当たり前に思うかもしれないが、本当に横綱でこれをやっていたのは常陸山と同時期に活躍した横綱が最後だと筆者は考えている。

梅ヶ谷(2代目)との対戦は明治の黄金カードとして相撲ファンのみならず、全国の注目の的となった。いわゆる「梅・常陸時代」である。

明治相撲史上最高の一戦と言われるのが1903年5月場所の梅ヶ谷との全勝対決である。大熱戦を制した常陸山は6月、梅ヶ谷と同時に吉田司家より横綱免許を授与された。

その後も第一人者として君臨。1914年6月限りで現役を引退し、年寄・出羽ノ海を襲名した。

なお、幕内勝率が9割を超えている力士は常陸山を最後に今日まで出ていない。


-土俵外でも見られる常陸山の素晴らしさ-
「力士はちからのさむらいと書く」と相撲に武士道を取り入れて、相撲を国技と呼ばれる程にまで押し上げたのはこの常陸山。誰からも慕われる大スターであった。

自らには脱走した過去があるが、力士の品位向上に努めて力士に着物と袴の着用を徹底させたのもこの常陸山。

現役時代から欧米諸国を周り、ルーズベルト大統領と会見しホワイトハウスで土俵入りも行った。

常陸山を頼って、入門する力士は多く、小さな部屋だった出羽ノ海部屋を角界一の大部屋にまで成長させた。この過程で弟子が増えすぎた為に料理がめんどうくさくなり、ちゃんこが生まれたという有力な説がある。

協会では取締に就任。米国本土、ハワイ巡業も成功に導いた。

指導者としても大横綱・栃木山に加え大錦常ノ花の3横綱、九州山、對馬洋、大ノ里、常陸岩の4大関、20余名の幕内力士を輩出した。

もし、常陸山がいなければ、今日の相撲界はなかったかもしれないといっても過言ではない。

歴代横綱一覧に戻る