-1場所全て引き分けた「分け綱」-
新入幕の1992年5月場所は3勝6敗と負け越し。しかし、上位陣総崩れとなり93年1月にはなんということか、幸運にも小結昇進を果たす。199cmの彼の巨体が観客を呼ぶであろうという興行的な部分も理由であった。

取り口は慎重で無理に仕掛けず、四つに渡って持久戦に持ち込むのが得意であった。

1899年に大関昇進。この頃には客寄せ要員ではなく、相手方の三役とも互角に戦うようになっていた。大関4場所在位した後の1901年4月、吉田司家から横綱免許を授与された。31歳だった。

03年には対露戦に備えて野砲連隊に志願して入営。3場所休場後に復帰してからは体力に衰えが目立ち、相撲はますます消極的になっていった。余りに引分が多く、いつしか人々は彼を「分け綱」と呼ぶようになった。

07年5月は1場所全て引分という離れ業を演じて見せた。「私はいつも雷(元横綱・初代梅ヶ谷)さんから、横綱は決して負けてはならぬものだと言うことを聞いていた。 向こうが死力を尽くしてぶつかってくるのを我慢して喰い止めているというのも、並大抵の努力ではなかったことをお察し願いたい」とコメント。実際に常陸山もなかなか攻めきれなかった。

08年1月をもって引退。

年寄・待乳山として活躍。巡業の売り込み名人として活躍した。

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