16代横綱

西ノ海 嘉治郎(初代)
(NISHINOUMI KAJIRO)


-番付に初めて横綱と記される-
番付上、初めて横綱として名前が載った第16代目横綱。本名は小園嘉次郎。

20歳の時、大阪の朝日山部屋に入門しようと門を叩いたが、巡業で誰もいない。方針転換し京都相撲入り。師匠は鯨波。京都で順調に番付を上げていく最中に東京相撲を脱退した高砂浦五郎と出会う。これをきっかけに高砂門下となり、東京相撲に参戦する。


-トントン拍子に大関、そして陥落-
1882年、京都で小結を経験していた事が評価されて幕内格でデビューする。83年5月に小結、85年1月には大関まで昇進する。

しかし、せっかくの大関の座も2場所で陥落、87年5月には小結に落ちる。

当時の三役は定員が厳密に定められており、下位力士が大勝ちすれば勝ち越しても陥落するというケースは珍しくなかった。

粘り強く精進を続けて、89年1月に関脇に番付を戻すと5月は9戦全勝の成績で90年1月に大関に復帰する。実に4年半ぶりである。

さらに大関復帰場所後に天覧相撲が催されることで横綱免許を受けることも決定した。


-横綱階級化への契機-
1890年1月21日に横綱免許を受けた西ノ海。

ところが新横綱の場所でトラブルが発生する。

5月場所の番付で2人の新大関が誕生した。一人が東小結で8戦全勝した小錦。もう一人は長年三役を務めた功績が評価された西小結の大鳴門だ。

西ノ海は東張出大関となった。当時は横綱免許を受けていても番付上は大関とされた。これに横綱免許を受けたのに張出はおかしいと西ノ海がクレームを付けた。

妥協案として張出す代わりに「横綱」と明記する案が浮上し西ノ海も納得。東京相撲史上初めて番付に「横綱」の二文字が載った。

この妥協案が横綱を階級化するきっかけとなり、横綱は称号でなく地位という考えが広まっていく。

取り口は力任せで、強豪横綱とは言い難い成績だったが、横綱の概念を変える契機という意味で今日への影響力は大きい。なんせ「横綱は称号」という概念は300年近く変わっていなかったからだ。

96年1月場所後に引退する。引退後は井筒を襲名し「鹿児島県人は井筒部屋へ」の伝統を今日に伝えるまで井筒部屋を立て直した。年寄としての功績も極めて大きい。

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