11代横綱

不知火 光右衛門

(SHIRANUI MITSUEMON)


-祖父の影響を受け-
不知火型土俵入り創始者として名を残している。本名は原野峰松。

相撲好きの祖父に影響を受けて、数え16歳の頃には近所では敵なしになっていた。

数え20歳の頃にやはり相撲好きの豪農に「百姓仕事で終えるのも一生、相撲取りになって天下に名を轟かすのも一生」と口説かれ、大坂相撲に挑戦する。師匠は不知火諾右衛門。


1845年7月に初土俵を踏む。近所で敵なしは伊達ではなく、50年7月には前頭上段まで進んだ。

この頃、既に江戸と大坂のレベルや格の差は歴然としており、50年11月に江戸デビューを果たす。

幕下二段目からのスタートになったが、出世には時間がかかり、江戸参戦7年目の58年にようやく入幕する。既に満31歳だった。


不知火は色白で均整のとれた体格であった。加えて玄人好みの技巧派力士で人気の方は幕内随一。特に右を差した時の強さは格別だった。しかし、色白に関しては残っている写真を見る限りは疑問符がつく。

61年1月には関脇まで昇進。62年2月には大関の座を射止めた。満36歳の時である。

大関・不知火の成績は極めて平凡なものであった。しかし、人気面や長年の功績が評価され、63年11月に横綱免許が吉田司家から下った。吉田司家の君主が不知火のお抱えであった細川家であった事も無関係ではなかろう。

陣幕には0勝13敗と歯が立たず、強豪横綱としてカウントされる事はない。


-不知火型の土俵入りの創始者-
不知火型土俵入りは彼が行ったものとされている。しかし、写真から判断する限りは雲竜型のせり上がりを行っているようにしか見えない。

どこかで名前が入れ替わってしまったという説もある。雲竜が不知火型のせり上がりをしていた一方で、不知火が雲竜型のせり上がりをしている錦絵が残されているからだ。

これに対して入れ替わりではなくせり上がりの形が変化して今に伝わっているだけという説もある。

引退は1869年。引退後は大坂相撲の立て直しに力を入れた。


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